なぜ男と女のコミュニケーションは難しいのか?若い頃には好きな相手に気後れしやすいのか?:吉本隆明の『対幻想』の考え方と男女関係の社会的認識

若い時ほど『自意識過剰・断られる不安・シャイネス』は強くなりやすいが『コミュニケーションで評価が変わるか(会話が余りなくても雰囲気等で好きになるか)』は個人差がある。緊張・不安が強すぎる場合、相手に受容感がないケースも多い。

本当に惹かれ合っている二人が結ばれない理由が判明

本当に惹かれ合う二人が結ばれない理由のタイトルはミスリードで、お互い好意があって相応のコミュニケーション力があれば、初めはぎこちなくても大半は話すようになる。厳密には『楽しく話せる関係・会話の上手さ』と『異性として付き合う関係』はズレる事も多いが、男女で会って話す関係だけというのは通常長続きしない。

偶然に会った時や仕事関連でちょっと会話する男女の付き合いはあっても、特定の異性と親密になると『恋愛・結婚・家族の排他的規範』があるので、一定の年齢では恋愛・性の要素無しでも『フリーに誰とでも会える・話せる(連絡できる)男女』は意外に少なくなる。異性間の会話・談笑は自由なようで結構制約はある。

『楽しく話せる関係・会話の上手さ』と『異性として付き合う関係』はズレる事も多いのだが、若い時期のクラスメイトとか部活・サークルの仲間とかを抜きにすれば、『継続的に楽しく会話・談笑をする関係』というのはその場限りを除けば、『異性として付き合う(恋愛・結婚の)関係』とも重なり合ってくる。

自分の好意を知られると恥ずかしいのは、思春期的な感性であると同時に、自尊心の絡む純粋・真剣な恋愛の態度でもある。年齢を重ねると、美人でもイケメンでも遠慮なく声かけし会話に持っていく人が出るが『恋愛への発展など期待してない・笑顔で雑談だけでOKの姿勢』だから相手側もその場だけで適当にやり取りできる。

吉本隆明は『対幻想論』で、人は対面コミュニケーションの場では“性(セックス)”として出現する形式から離脱できないとした。異性間の友情やフリーな会話継続は『男女の排他規範と社会のまなざし』によって成立困難とする。親しげな男と女を自動でセット(対)と見なす目線は本人の気持ちとは別に社会通念的に強固である。

親しげな男と女を自動でセット(対)と見なす目線は、例えば二人で買い物をしたり旅行で宿泊すれば、本人の気持ちとして友人でも、社会一般では概ね自動で夫婦か男女関係ありと見なされ弁解の機会自体がない。対幻想は生物的本能・独占欲・社会のまなざしから構成されるが、無性的な自由な個人は殆ど存在しない由縁である。

対幻想の与太話としては、キャバクラやクラブなどで働く女性が、釣り合わない男性客と同伴する際、一見してそれと分かるど派手な服装・化粧・接し方で本当のセット(交際相手)ではないと示す『対幻想のシャットアウト』をしたりする。仲の良い若いカップルだと対幻想強化で類似した服装で似た雰囲気を出していたりもある。

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