人類の進化・政治・戦争の歴史では『人数の多さ=競争の力』の面があり、仲間を増やして群れる事に実際の利益もあった。現代は実利より『心理的な必要と不安・社会的な自己呈示』で他者を求める。
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『一人で行動する面白さ・自由度』もあれば『他者と(集団で)行動する面白さ・高揚感』もあるが、どちらかだけに偏ると『ずっと一人は寂しい・ずっと集団行動はストレスになる』の不満が出る。現代は職場・学校(昔馴染み)・結婚・家族・地域など半強制的なつながりを除けば、所属を離れれば人間関係も疎遠化しやすい。
多くは若い時期を中心に人生のどこかで仲間・恋人・家族と盛り上がる『リア充らしき場面』はあるが、同時に大半の人は『ずっと他者と盛り上がるリア充な生活・生き方』はできない、また『自分の世界・やるべきこと』が広がると必要以上に群れたくなくなる(内容・目的を問わない人づき合いの優先度が落ちる)ものでもある。
ぼっちは寂しい人に対抗して群れるのは中身がない人の定型文もあるが、『他者とコミュニケーションできない人(孤独に追い込まれる人)』と『他者との交流を必要以上に広げない深めない人(単独行動を好む人)』とは違う。また常に他者と一緒に群れるにはある意味『自分の中身(一人でやりたいこと)を捨てる』必要もでる。
現代人は個人を終身的に包摂し他者との長期的関係を維持する『共同体的集団』を失った。歴史的に見れば大家族から核家族になり、村落から都会に出てムラ社会の束縛を逃れ、親密な他者を限定しプライバシーを守る等、現代人は自ら共同体的な多数の人との切れにくい関係を離れ、孤独を嘆きつつも身軽・自由・選択を好んできた。
現代でも長期的関係の多くは、家族・配偶者・同僚・幼馴染(学校時代の知り合い)など『(自由にくっついたり離れたりを選びにくい)共同体的な性格』を残すものが多い。ただの知人のカテゴリーだとその仕事をやめた時、その集まりが解散した時につながりが切れやすく、用事なく敢えて連絡を取り続ける他者は多くはないのだ。
人は、集団の中で暮らすうちは”人間”と定義され、社会や家族の中に居場所を失うと”隠遁者”や”孤立者”と、ネガティブに印象付けられがちですが、むしろ長い一生のうちで、常に誰かと一緒に暮らすケースの方が少なくなっていくのかもしれません。
そもそも現代人が望む『リア充的な人間関係』は、『自分が好きな相手(互いに不満のない相手)と都合の合う時に集まるような関係』でそういった都合の良い関係は少ない。大半の人間関係は『関係維持コスト・合わない他者や興味ない活動』とセットで、一人行動より楽しみが多かったり面倒・ストレスが多かったりするものだ。
対話が完全にない孤独は、よほど精神的にタフで悟りきった人でもないと長期で耐えるのはきつい。それぞれの性格・生き方で向き不向きはあるから、集団で群れたりつるむ必要はないが、一人二人くらいはその時々で自分(相手)が語りたい事を聴き合って対話・共感できるような相手はいたほうが精神状態は安定する。