近代憲法の立憲主義は『国家権力の有効範囲』を示すことで『国民の人権・自由』を守るが、自民党草案では『公益及び公の秩序』によって『個人の権利の有効範囲』が狭まり国権が強化される。
何を変えようとしている?自民憲法草案(4)権利と義務 公益と責務重視 (THE PAGE – 06月28日 14:11)
近代憲法では『個人の生存権・自己所有権』は国家によって保障される以前の『天賦人権・自然権』に由来すると想定されるから、国家が認めてくれなければ『生命・身体・内面(思想)の自由』が認められないわけではない。その意味で『人権と義務の相互性(義務を果たさないと人権がない)』の主張は間違いである。
『人権と義務・自由と責任の相互性』は間違いだが、厳密には『公的年金・公的健康保険など国の財源から付与される権利』などにおいては、『支払い義務を果たさないと受給権がない』ケースもある。ただ『生存権・自己所有権』などは国家に対する義務を果たしたか果たしてないかでその権利の有無が判断されるものではない。
『公益及び公の秩序』というのは曖昧な概念だが、『政府・国家権力の法律を介した命令=公益』や『多数派の意見や命令=公の秩序』と解釈されてしまうと、究極的には個人の生命・身体・行動までもが『国家や多数派』に従属することになってしまう。全体主義・国家主義が憲法で是認されれば、個人の人権保障など脆弱である。
『国家に奉仕する国民(臣民)・自由や権利を主張せず権力(政府)に従う国民』という明治憲法の精神性への復古主義も垣間見えるが、自由民主主義国家では人権を持つ国民が主権者であるから、『公益及び公の秩序』が具体的に何を意味していて、どこまで国民の権利を抑制できるか確認しないと権力の有効範囲に制限がない。
国家権力が個人の人権を無視し最大の強制力を発揮するのは、第二次世界大戦末期の総力戦における徴兵・徴発・犠牲強要に見られるような事態だが『生存権(国民の生命身体)・財産権』と『内面・行動の自由(思想教育の強制)』を直接制限して国民を道具化するような憲法の規定は歴史に学ぶ意味でも差し控えるべきだろう。