トルコのクーデター未遂事件は、290人以上の死者、1400人以上の負傷者を出したが、反乱軍はエルドアン政権にあっけなく鎮圧され、反乱分子に対して非常に強力な『報復措置(公職追放・身柄拘束など)』が矢継ぎ早に繰り出されている。
トルコ死刑復活ならEU加盟できず、独がクーデター処罰でけん制
反乱軍(トルコ軍の一部)は電撃的なクーデターを起こした。短時間で主要施設を占拠して首都アンカラの議会を爆撃、欧州と中東をつなぐ要衝であるボスポラス海峡とイスタンブル国際空港を封鎖して、反乱軍の優位性を演出した。
反乱軍はクーデター開始後に夜間外出禁止令(夜間に外出した者は反クーデター派として殺害される恐れがある)を出して全権掌握を一方的に宣言したものの、圧倒的な支持率を誇るエルドアン大統領は静養で首都を離れていたものの落ち着いており、ネットやアプリを駆使して国民に『恐れずに広場に集結せよ(非合法クーデターに反対する民意を示せ)』と指示を出した。
トルコ軍は1923年のケマル・アタテュルクによる近代化を目指すトルコ共和国の建国以来、『政教分離・世俗主義(ケマリズム)の守護者』を自認しており、政権が『イスラム原理主義化(政教一致)+非民主主義化(独裁化・骨抜きの全権委任化)』の動きを見せた時に軍事クーデターを起こすことが多かった。
トルコはイスラム教徒が大半を占めるため、自然の多数決だけに任せていれば世俗主義を捨てて政権・議会がイスラム化するリスクがある。軍は1980年のクーデター後の1982年にトルコ憲法を改正し、『イスラム国家化しない世俗主義』を国是とする旨を定め、軍や司法に強い権限を認めていた。
過去に三度の軍事クーデターを成功させたトルコ軍は、明らかに文民統制(シビリアンコントロール)と法の支配を逸脱した第四権力のような自律性を譲らない武力組織、自分たちこそ国会を飛び越してでもイスラム主義化(西欧基準における文明的退行)を力で防ぐという『エリート主義的な軍事勢力』である。
それでも国民の過半数にクーデターが支持された背景には、西欧先進国に並ぶ地位を占めるための『ケマリズム(アタテュルク主義)+建国の父ケマル・アタテュルクの軍事的カリスマ性の残光』があったからである。
更には、自分たちをヨーロッパ先進諸国の一員(地理的に中東にありながらもヨーロッパの国々と肩を並べる近代的な世俗主義の国)と見なすトルコ人の自意識がある。世俗主義を標榜する近代トルコは一貫して、中東のアラブ諸国よりも欧米諸国の政治・文明を模範としてきたし、EUの一員として認められたい願いを叶えるための政治・権利・慣習の改革に前向きでもあった。
ケマリズムの生命線は『近代化=脱宗教支配化(政教分離の徹底)』であり、民主主義的な多数決やイスラム化(独裁化)の反動によってそのケマリズムが脅かされそうな時には、暫時的にせよ軍が政治的な圧力をかけたり実力でクーデターを起こしたりしてきた。そこには、旧弊的なイスラムの教義的な政治支配を離脱し、近代化・西欧化を目指し建国した英雄ケマル・アタテュルクの正統な後継者であるとする軍部のエリーティズム(民主主義を世俗主義を基準にして監視する特権意識)があった。
しかし2010年9月、エルドアン大統領率いる与党・公正発展党 (AKP)は憲法改定案を出して国民投票を行いこれに勝利した。この憲法改正によって、司法や軍の政治介入が抑制され、『民主主義・法の支配』の強化を理由にして国会と大統領の権限が強められた。
軍はこの憲法改正でクーデターを起こさずに政府に政治的圧力をかけることが難しくなり、世俗主義対イスラム主義の影響力争いも世俗主義の憲法の縛りがあるとはいえ、『数の力(イスラム教徒の多数派の同意)』によって近代トルコの世俗主義が漸進的にイスラムの伝統や規範を容認する方向へと変質する可能性は以前より高くなった。
反乱軍は継続的な軍事独裁のためにクーデターを起こしたのではなく、多数決の民主主義の方式にのっとってイスラム主義の要素を併せ持つ絶対権力を固めるエルドアン政権を掣肘するため、言論・思想を統制したり独裁的な権限を強化する動きを牽制するためにクーデターを起こしたのだと推測される。
反乱軍には、世俗主義のケマリストだけではなく、イスラム主義のギュレニスト(米国在住の宗教指導者ギュレン師の勢力)もいるとされるが、エルドアンは特に『ギュレン師の首謀者説』を強調することで、国際社会から『世俗主義とイスラム主義との争い』という側面を隠蔽しようとしているようにも見える。ケマリストもギュレニストも『反独裁・反エルドアン派』での価値観は一致しているとされる。
反乱軍は自分たちのケマルの威光を引き継ぐエリーティズムの価値観においては、トルコ国民の自由・人権(エルドアン大統領の独裁強化に対する抵抗力)と近代国家トルコの世俗主義を守ろうとしたのだろうが、トルコ国民の過半数はエルドアン大統領と公正発展党 (AKP)の支持者であること、そのうちのかなりの割合は政教一致でも構わない『敬虔なイスラム教徒』であることを甘く見てしまった。
反乱軍はまず重要拠点を制圧し占領した上で、国民が軍に歯向かわないことを確認するために『夜間外出禁止令』を出したが、国民は反乱軍ではなくエルドアン大統領・政府の指示を聞き、どんどん街の通りや広場に出てきて群衆が抗議デモを行い始めた。
初期には反乱軍は街に出てくるなという威嚇のため、上空の戦闘機から通りに向かって機銃掃射を行って一般市民を殺害したが、これが更にエルドアン派の市民の正義・怒りに火をつけ、クーデターに抗議の声を上げる群衆の数は増えるばかりとなった。トルコ国民をこれ以上殺せばクーデターの大義名分の一切を失う反乱軍は、銃撃を停止して戦闘機を引き返させた、戦車・装甲車は怒れる市民に周囲を取り囲まれて身動きできなくなり、説得されたり罵声・怒号を浴びたりした軍人はそのまま投降を余儀なくされた。
トルコ軍がクーデターを成功させてきた歴史的慣習とその根拠(潜在的な軍部支持)の前提が根底から覆された瞬間である。街の広場や大通りには抗議デモの群衆から『アラー・アクバル』や『偉大なエルドアンを支持する』という掛け声がしきりに上がり、トルコの最大多数派が緩やかに世俗主義よりもイスラム主義(イスラムの宗教政治の規制緩和)に傾斜していく様子が伝わってきた。
クーデター挫折によって、『建国の父ケマル・アタテュルクの軍事的カリスマ性』の残光が消えかけ、世俗主義の守護者を自認してきたトルコ軍の威信も失墜したが、これは現代で影響力を強める『エルドアンの政治的カリスマ性』が既に歴史上の人となって久しいケマルを上回り始めたことの現れでもある。
1982年の憲法制定とケマルの建国理念(軍事カリスマ)の残光、国民のヨーロッパ帰属意識(西欧的近代化による生活水準の向上)が『トルコの世俗主義』を一貫して支えてきたが、ここにきてそれらすべての要素が反転し、『エルドアンの権力強化・憲法改正・イスラム主義化(自由主義・男女平等への圧力)』が民主主義的な選挙や民意によって後押しされる可能性のほうが高まってしまった。
今回のクーデターで、最終的に漁夫の利を攫ったのは反対勢力を一掃する大義名分を得たエルドアン大統領であり、米国にいる政敵(旧盟友だが訣別)のギュレン師は『エルドアンの自作自演説(クーデターの意図的誘発)』を訴えているようだ。
軍事クーデターに関与・協力したという疑いで、約7500人もの軍・司法関係者が身柄を拘束され、軍に親和的な地方の知事も30人以上が罷免、警察官を中心として公務員が約9000人も解任されたと報じられている。
民主主義(議会政治)や法の支配を脅かした反乱分子というまっとうな疑いをかけることによって、エルドアン大統領は『軍・警察・司法・地方に対する統制力』を強め、『反エルドアン派(反独裁派・世俗主義・ギュレン派)の一掃』を図ることができた。
更に多数派の民意が死刑復活やイスラム容認を求めているということで、死刑制度を復活させたり、世俗主義を国是とする憲法を全面的に改正する動きに出るのではないかとの見方もある。
既にエルドアン大統領は、自分や政府に批判的な報道・言論活動を行っていたジャーナリスト・文化人・出版関係社を逮捕する(出版社を閉鎖させる)言論弾圧に及んでいる。すなわち、エルドアン大統領は『民主主義(数の論理)』は尊重しても、『人権・自由権(個人の権利)』を尊重する大統領(権力者)だとは言えず、この路線が強化されていけば政府・イスラム主義に迎合しないマイノリティ勢力の個人は何らかの抑圧を受けることになる恐れもあるのである。
反乱軍の大義名分を掲げた声明は「立憲主義、民主主義、人権、自由を回復し、トルコ国内にもう一度、法の支配を確立するため」というものであり、エルドアン大統領の強権支配の内容が個人の言論・表現・思想の自由を脅かすものになってきたこと、イスラム主義勢力の価値観や道徳規範に影響されやすいものになってきたことを憂慮するものになっている。
『民主主義・民意の政治反映』を錦の御旗とする外交干渉を行ってきた欧米諸国は、形式的には民主主義と法治主義を尊重しているエルドアン大統領の合法的な強権体制を表立っては批判しにくい。
だが、国民の多数派(与党勢力)の支持さえあれば『反対勢力の大量弾圧(死刑復活)・多数派による少数派の抑圧・世俗主義からイスラム主義への変質(復古的な憲法改正)・出版報道や言論活動の監視と反政府派の意見の弾圧・秩序や道徳を理由とした国民の自由規制(主権者としての権限の実質的剥奪とそれに対する国民の自発的従属)』など独裁的・権威的に何でもやって良いというような民主主義の理解(対欧米の説得)の仕方は間違っている。
近代トルコの『基本的人権(言論・思想・表現・信教など自由権)の尊重・政教分離と世俗主義』をベースにした政治体制が民主的に維持されることを望むが、元々はイスラム政党がかなりの影響力を持つのが自然なムスリム国家(近代トルコは憲法を根拠に強制的にイスラム原理主義の政党を解散させてきた)だけに、ケマルの威光が薄れゆく現代トルコにおいて『世俗主義の国是・憲法(欧米寄りの近代化続行のスタンス)』が長く守られ続ける保証はなくなったと見たほうがいいのだろう。
一部の軍人の軍事クーデター(暴力による政治変革の幻想)は既に現代トルコでは時代錯誤な支持されないものであるが、トルコの民主主義は主権者意識・人権意識・経済水準が未成熟な反動として『強権支配の根拠(民意があれば何でもやって良いの根拠)』に流用されやすい(中東諸国は歴史的・文化的・風土的に独裁者を生みやすい面を含め)という自由主義を十分に取り込めていない問題を抱えている。