『相対的貧困』は階層流動性が落ちた現代の閉塞感の一因だろう。貧困再生産を恐れて少子化にもなる。先進国の『人並みの文化的生活のレベル』は高コストであり子孫の世代に付与しづらくなった。
高度経済成長と一億総中流社会を経験した戦後日本は、歴史上で初めて庶民層が『貧困・惨めさ・劣等感』を一時的に払拭して、『物質的・文化教養的に豊かなライフスタイル』を子供世代に付与できたが、そんな中流の生活様式を『誰でも実現できて当たり前』の感覚になった所で、経済成長が終わり格差が開いた反動が大きい。
1970~80年代頃までは親・家の事情で学力があっても進学を断念する子は珍しくなかったし、社会階層の違いによる機会・仕事の不平等も現実として受け容れられていた。だが現代は建前として『機会の平等=親による子の不利益のゼロ化』が規範としてあり、相対的貧困は機会の不平等・子の理不尽をもたらす社会悪となる。
『相対的貧困』が問題視される社会は、一度は高度経済成長を成し遂げ、多くの人が豊かさを短い期間でも味わえた先進国の社会である。みんなが貧しくて教育がなく格差の小さい社会では『絶対的貧困』が問題だが、豊かさの中の貧しさ、教育のある人の貧しさが増える社会では『相対的貧困』という豊かさの後退・劣等を恐れる。
相対的貧困は普通にご飯が食べれて死ぬわけではないし、それなりの消費もできるのだから貧困ではないわがままだという批判は確かに多いし、現代の先進国ではかなりの割合の人が相対的貧困ラインに当てはまるので、余計に(自分が救済されないのに)『救済される対象となる相対的貧困』に不平不満がでやすい。
だが階層流動性の落ちた豊かな社会における『相対的貧困』の問題の重要性というか人心に与えるインパクトの大きさというのは、先進国では大多数の人が『相対的貧困ラインの生活状況を嫌だと考えて子孫の再生産の停滞』が起こることであり、それなりに働いてそのラインなら勤労意欲も落ちやすい事である。