セクハラやパワハラ、モラハラが増加する『現代のハラスメント社会』をどう生きていくべきか?

ハラスメントには『他者の過度な侵入感・支配性』がある。男のセクハラには、拒絶を恐れて冗談の防衛線を張った『間接の性的関心・誘惑・評価』が含まれ、それが性的嫌がらせや侵入感になりやすい。

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セクハラは『見る性・見られる性』『社会経済的な力関係・ポジション』『性別役割規範のジェンダー』の男女の非対称性によって生み出されやすい。近年は男性も『外見・性的魅力の目線や評価』に晒され愚痴や不満は増えている。男でも女でも『他者から不躾に品定めされるような目線・言葉』を受ける事は一般に不快である。

しかし厳密にはセクハラにおいて『男女の平等なポジションや被害感』は成り立ちにくい。『男性・女性のセクシャリティ』の差異は、男性側の性的欲望・視覚刺激(女性の身体性への幻想)の強さによって規定され、『女性身体=性的なオブジェクト』のように男性身体をまなざしてあれこれ品評する女性はどうしても少ない。

確かに、女性にも男の身体性について『胸・腕・尻の筋肉が好き,全身のフィギュアや顔立ち(目・鼻・口)が好き,性の好きなムードや感覚』はあるかもしれないが、男性のような女性身体(胸・口腔・性器等)に対する執拗な視覚・言葉のフェチシズムには到底及ばず、女性でさえ女性身体にエロスを感じる人が多いといわれる。

セクハラの根源には、遺伝・形態・生理も含んだ『男と女の差異』が横たわるが、社会的・表面的には『理性・知識・配慮』での抑制が可能である。だが性的にまなざして欲望して比較する内面自体に、一定の侵入性・暴力性が潜在し、それを表現・伝達・干渉した時に、受け取る相手によってはセクハラや性暴力になる。

男性と女性のセクシャリティが全く同等であったなら、セクハラも性犯罪も地上から概ね消滅していたかもしれないが、それは進歩のない世界でもあるだろう。男の性的興奮に対する選別性の弱さに、女の男性の欲望に対する選別性の強さ(猥褻回避)が組み合わされた事で、有性生殖と政治・経済社会の進歩の動因が生まれた。

現代社会におけるセンシティブなハラスメント問題は、人権・個人主義・プライバシーを中心として『他者からの不当な干渉・侵入・支配の拒絶』が強まったことの現れであり、男女の性でも『自分が承認した相手・時と場面以外からの性的な語り・刺激・情報』を完全シャットアウトしたい侵入排除の自己尊厳上昇が起こっている。

どうしたら女性(男性)が生きやすくなるかに対する究極的な答えは、『合わない異質な他者とできるだけ接さないこと』である。現代は『分かり合えない他者』との相互理解を進めるよりも、女性専用車両・防犯カメラ・ストーカーの法整備・棲み分け・恋愛低迷(草食系)など初手からの他者回避・隔離的な環境管理が増えた。

現代の生きづらさの根本は、かつて『世の中は理不尽・社会は厳しい(それに逆らうのは甘え・わがまま)』で容認されてきた不快な支配・侵入・役割である。それらを決定的になくし生きやすくしようとすれば、『合わない・嫌い・気に入らない他者の存在』と『合う・好き・気に入る他者の不在』とどう向き合うかになる。

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