今、50代以下の人が公的年金が減額されたり家族・地域から孤立化したりする『老後の客観的現実』を見据えて構えるなら、無料低額宿泊所の屋根の下で衰弱死する事もまだ文明的な死と言えるかもしれないが。
『老衰・貧困・孤立』のコンボは、50代の壮年期までバリバリやって強気でいられた(いざとなったら自死する等)人でも70代以上の『その時』になってみないと分からないつらさである事は確かだが、自我意識・関係性・状況把握の明晰さを失う認知症もまた、人によっては老苦を和らげる生体防御機構の一つとも解釈できる。
人類の歴史を振り返れば、庶民以下の老後のどうしようもなさは『受け容れるしかない運命』だったが、医療・介護・公的扶助の制度的な保護がなかったため、『長くつらい老後』にはならなかった。現代では医療・施設・制度抜きで自然死する事は難しい、『文明的な死・病・経済のレベルの苦』と向き合う時間の長さを免れない。
公的年金制度が悠々自適の老後(困窮なき老後)を庶民にイメージさせてくれた時代は短かった。病の苦痛や衰退の悲哀がない老年期など過去の王侯貴族でも得られなかったものだ。現代は『建前の人権』で不幸で悲惨な老後があってはならないとするが、若者も含めて『老後の備え』で社会全体が怯え萎縮してしまった。
現代の都市文明や技術進歩は『アンチエイジング・若さ至上主義』を商業的なマーケティングと共に押し付けてくるが、それだけ『四苦の老』は現代で敬遠されている。どんな金持ち・権力者でも老には抗えず遂には虚しくなる。超高齢化は人口と社会の若さ減少やインフラの老朽化、消費停滞の現実から目を逸らせなくもする。
老化・老衰は『人間の経験知・成長と成熟』の概念によって一定年齢まではカンフル剤を打てる。だが認知症の重症化や手足の不自由、食事・排泄の困難などが出ると、概念・思想だけでポジティブな自意識・尊厳を保てるか誰も強い自信は持てない。人間関係・経済・自意識・諦観で適応度・苦痛度は変わる。