君主の原点は支配者だが近代の立憲君主は常に模範的・倫理的である事を強いられる、天皇は『崇高かつ完全な人格・考え』を国民に想定されるために自らの意思(真意)を明確には語れず補足説明もできない。
歴代天皇には、伝説的暴君として権力を悪事に濫用した武烈帝・雄略帝、粗暴で殺人歴もある陽成帝等もいるが、近現代以降の立憲君主たる天皇は形式的にも教育的にも『暴君(倫理的・人格的に問題ある君主)』は存在を許されない。国民統合・模範人格の象徴としてメディアもある現代で天皇の役割を終身こなす苛烈さが増した。
英国王室や皇室の継承権のない皇族では、マスメディアの監視網の中で模範的な人格や倫理的な生き方に『ほころび』を見せた人も出ているが、明治天皇以降の天皇と皇太子は、過去の天皇にはないほど『瑕疵のない模範性・倫理性』を体現する努力を続け、国民も暗黙の了解で理想の名君・ぶれない人格者を求めている。
一代限りの退位は、天皇の意思(真意)を敢えて汲まずに解釈することで、『象徴天皇制の神聖維持』を構想している部分も否定できない。敗戦で天皇は現人神ではないことを認め『人間宣言』したが、『理想人格体現の終身天皇制』は神でないとしても超人性の権威・アウラを国民に見せる可能性とつながっていた。
生前に譲位できない終身天皇制は、天皇陛下が人間の身でありながら普通の人間ではまず務まらない歴史的かつ倫理的な役割を人生を捧げて遂行し続けるという『超人性の権威・アウラ』を見せるだけでなく、『国家・国民に対して正にすべてを捧げる献身性・宗教性・無私性の象徴』である。国民統合の象徴としての完全性を担った。
だが政教分離が進んだ現代社会において、客観的には生身の人間でありながらあたかも人間を超越するかのような崇高かつ倫理的な象徴の役割を担わなければならないというのは、天皇制の歴史・伝統と日本国民の共同幻想の希求があるとしても過酷・熾烈であり、一定の引退条件があって然るべきとも思う。
そもそも天皇は、映像に映ったり音声を録音されたりする時に、決して『誰かや何かを否定したり反対したりするネガティブな意見・感情・表情』を表出することがなく、文章においても『強い言葉・主張,ネガティブな内容・気持ち』を表現できない。政治家の怒り・嫌味を隠さぬ野放図さと比べ自然な喜怒哀楽さえ出せないお立場は過酷すぎるように思える。