思慮し反省できるなら殺人未遂を起こさず、本当にその女性が好きなら断られたら粘着・激高せず身を引く。好きな女性を数十回も刺し傷跡を残した罪業を自省できる人なら、殺せでなく自害も有り得る。
法廷で衝立があるとはいえ、証言に立った被害女性の勇気は賞賛に値するが『自分の生命を危機に晒した上での必死の訴え』も、『自己愛(自己憐憫)・妄想と執着・所有欲・逆恨み(責任転嫁)などの業を積み重ねすぎた加害者』の耳には届かない。加害者はむしろ自分を被害者のように思って居直っているからこそ怒鳴り暴れる。
被害者との関係性を除外し、加害者の罪を俯瞰すれば『自業自得も含んだ運命(人からの愛情や承認に恵まれぬ運命)の被害者』の側面もあるが、仮に自分の人生の大半が思い通りにならず不満だらけでも、勝手にのめり込んだ被害者女性には何の関わりもない事だった(全て自分が招いた)と気づき納得せぬ限りは反省できない。
ストーカー犯罪の加害者の反省・改善や矯正プログラムの難しさというのは、『客観的には加害者である人』が『主観的には相手から無視・拒絶されて傷つけられて我慢し続けた被害者』のように思い込んで自分は悪くない(少し自分を納得できるように話して誘導してくれていればこんな事はしなかった)と思っていることにある。
だが『自分だけが好きでいる相手・自分だけが話し合いたいと思う相手(相手側は自分に時間・労力を割いてまで関わりたくない関係)』が自分に対して愛想よく根気づよく応答をする道義的義務のようなものはない。アドラー心理学流でいえば『相手が自分をどのように評価し扱うか』は『相手の課題』なのである。
ストーカー対策とアドラー心理学。『課題の分離』が出来る人がストーカーになる事はまずない。この加害者も『プレゼントを渡した女性がどう受け止めるか(断る返事も有り得る)』という『相手の課題』を『自分の課題』と錯誤し妄想・怨恨を深めた。断られて『俺はしつこい』と粘着する前に、返事は『お前の課題』ではない。
相手がきちんと申し出に対して賛否や諾否を明らかにして返事をしているのに、『俺はしつこい諦めない・俺は何するか分からない・私はそういった人間だ』など身勝手な自己定義を強調して相手の意思・返事を押さえ込もうとするやり方はコミュニケーションのマナー違反で、行き過ぎれば嫌がらせやストーカー、脅迫になる。