生命(個体)の継続を否定する『反出生主義』にどう反論できるか?、出産・人類の継続を理性・理屈で論理的に肯定できるか?

現代の先進国の少子化原因(選択的な出産回避)、自己否定的な悲観主義の一つとして、『虚無主義・優生思想』とも関係したデイヴィッド・ベネターらの『反出生主義(antinatalism)』が挙げられることがある。

http://0dt.org/vhem/argue.html

http://chaos2ch.com/archives/4750759.html

反出生主義とは『人生は快より苦が多く生まれてこなければ良かった・生まれなければ何も思い煩う主体がそもそもない』という通俗的な悲観主義・虚無的な厭世感を、『帰結主義・功利主義・確率的な不遇や絶望』から理論化した思想だが、この人間存在(生の意味)の否定の思想を『感情・常識』ではなく『理性・ロジック』で否定することができるかを少し考えてみたい。

反出生主義は『最後はみんな病気・老化・事件事故・自殺などで死んで連続的な意識・記憶は何も残らないという帰結主義』や『人生には確かに快(良いこと)もあるが初めから苦痛(悪いこと)や悪意・死を感じる主体が生み出されないことのほうが全体の不幸が減るという功利主義』から、自分以後の誕生・生命を否定的に見る思想である。

デイヴィッド・ベネターは人の人生に『快・喜びが存在すること』には確かにプラスの価値があるが、人間の存在・意識が初めからなければ『快・喜びが存在しなくても(不幸・無意味にならないために必死になり、快・喜び・意味を感じるための努力や解釈がなくても)別に構わない』だろうと語る。それはそうだ、人間が誰もいない世界では快・喜びを感じる主体、そのために努力や競争をする主体がいないのだからという当たり前の話ではある。

そして、人間の存在・意識がある以上は誰かの『苦痛・悪意・絶望などが存在すること』は絶対に避けられないとして、そういったマイナスの境遇や認識・価値観が一定ラインを超えると(せっかく生み出すことに意味があると信じて生み出されたのに)『生まれてこなければ良かった(初めから自我・知覚がなければ何も感じず何もない状態が続いた)』という反出生主義に転換して苦しんだり死んでしまうこと(誰かを傷つけてしまうこと)さえあるのだという。

さまざまな条件を背負った人間が次々に生まれる以上は、確率的に誰かが不幸・貧苦になったり差別・迫害・侮辱を受けたり、重い病気になったり自殺したり犯罪者(テロリスト)になったり冷酷な独裁者になったりする。初めから誰も生み出されなければそれらの人間の存在・意識にまつわる問題や不平不満のすべてが解決されるというのが反出生主義だが、それはそうだろうとしか言いようがないといえば言いようがない思想である。

仏教の一切皆苦や涅槃寂静の西洋版の思想の趣きがあり、老荘思想の遁世的な無為自然の境地とも重なる部分があるだろう。反出生主義は人の生存本能や社会常識から外れているものの、『人間存在・自我意識がなければあらゆる苦・罪・悩み・迷い(人間を思い煩わせるものすべて)がない』という論理的帰結そのものは反駁困難ではある。

生まれてくる人間の誰かは必ず不幸(被害者・敗者)や害悪(加害者・厄介者)にならざるを得ず、それが自分や自分の子孫でない保証はないという確率論(遺伝と環境の確率的決定論)を前提にしていて、特に初めから不幸・不遇になりそうなネガティブな因子を多く持っている人ほど子供を持つべきではないとする現代の先進国の少子化現象の心理要因に潜在的に触れるものでもある。

視点を変えれば、子供の幸福や快(喜び)のために有利な遺伝・環境・教育・支援を与えられる親だけが、積極的ではないにせよかろうじて子供を産んでも良いように思えるという『優生思想』と背中合わせであり『出生前診断の選択的中絶』とも親和性があるだろう。

だが反出生主義は、優生思想や出生前診断の選択的中絶にある『幸福・快(喜び)のために有利な要因を持っていそうに見える人』でさえも、究極的には『生老病死に代表される苦痛を回避できない不完全な存在』としてできるだけ子供を産まないほうが良いとするが、この人間存在をニヒルな自己否定に導く合理的な思想を『感情・現状追認』でなく『理性・ロジック』でどう否定できるかということである。

感情論や現実論で否定するのであれば、『大多数の人間はそこまで生の本質や帰結だけを考えて思想的・内省的に生きないし、それなりに人生が順調にいっている若い男女が好きで一緒にいればセックスして妊娠してしまうものであり、そもそもこんな思想は関心を持たれない』で終わるとも言える。

長く生きていればいつかは老化や病気、孤独などの苦痛を味わって、その中の一定の割合の人は悲惨な末路や意味なき死に陥るかもしれないが、それでも『今の時点で現実味のない苦痛や不幸』ばかり想定して『今現在の楽しみ・喜び・可能性』を初めから捨てて、苦痛や不幸をあらかじめゼロにするほうが良いという人はかなりの少数派である。

端的に、人生が最終の帰結として『無意味・苦痛・老いと死』に終わらざるを得ないとしても(それはただの言葉の上の可能性ではなく生物として不可避の事実ではあるが)、『何も楽しみ・盛り上がりの変化がない死(終わり)を待つだけの人生』に多くは我慢ができないものである。

何も起こらないことに我慢できないからこそ、社会共通に意味あることとみなされやすい『結婚・家族・出産(子供)』に相当なリソースを割く人が少なくないのであり、『今の時点で楽しくて明るい気分・今の仕事や人間関係が上手くいっていて将来の希望が強い心理状態』の人であれば、もしかしたら不幸や苦痛を感じるかもしれない可能性というのは、極めて小さく見積もられるだろう。

本能や期待やライフプランも含めて、妊娠出産をどうしても我慢できない、しなければ後悔してしまうという感情は恐らく現代でもそれほど珍しいものではなく(だからこそ不妊治療に大きな支出をする夫婦は多いわけで)、逆説的だがその根っこにあるものは反出生主義と同じく『有限・不完全な思い通りにはならない人生の重圧』なのである。

現代でもかなりの妊娠出産は『自然の摂理+本能の発現+周囲(家族・友人・コミュニティ)からの影響』で行われていて、確かに生まれてくる子供の意見や選択を聞いてから産むことができない以上は、子供は『親の希望・喜び・選択・異性愛(あるいは人工授精)』によって生み出されることになる。

反出生主義は、これを子供に苦痛の可能性を与えるエゴイズムの悪と見なすわけだが、こういった親のエゴイズムに対する批判に対して感情論で反駁すれば『自分は子供を幸福にさせるために何でもするつもりである』や『苦痛よりも喜びや楽しみが多い人生の人も大勢いるはずで自分もそうである(反出生主義は自分が不幸や苦痛に打ちのめされてそれを自分で打破できない負け犬の思想である)』といった形になるだろう。

だがロジカルな反駁としては『子供が幸福になれそうかどうか(親が子供のためにどれだけのことをしてあげられるか)の視点』だけで語られる出産の価値判断は極めて近現代的かつ先進国的なものであり、『子供の視点による出産論』は確かに未だかつてないほどに潔癖な倫理主義や不幸回避に行き着くものではあるが、『親の視点・都合・思惑によるエゴイズムの出産論(親のために子供を作って親孝行するような育て方をする)』も歴史的・世界的には絶対悪とまでは言えないところがある。

むしろ、『飯を食わせて義務教育まで受けさせたら後は子供の自己責任で生きていくべき(大人になって幸福になろうが不幸になろうが野垂れ死のうがそれが人生というもの)』という親の視点・都合で子供を出産できなくなったこと(親の助けにならない子供を切り捨てられなくなったこと)が、現代の少子化の原因の一つでもある。

日本でも忠孝の儒教道徳が残る近代初期までは『親・先祖のために子供を作る感覚』が濃くて、実際に家督家業を継いだり、親の役に立ったり家の助けになるという意味で子供を増やしていた本音の部分もあるわけで、『純粋に子供のための出産育児・人生の支援をすべき(親が子供のために支援したり尽くしたりすべき)』にシフトしてきた時代精神の変化が少子化を促進してもいる。

『親のための子供(あなたを産んであげたんだから感謝して孝行しなければならない)』から『子供のための親(わたしが望んで産んだんだから子供のために頑張って教育・就職・人並みの体験などを支援してあげなければならない)』へのシフトである。

これは、子供を生み出して人生の幸不幸・喜びと苦痛を与える責任を、過剰なまでに重大かつ決定的なものと見なす反出生主義のセンス(初めから一定以上の不利な条件や負担の大きい環境で、子供が自分が選んでいない生を与えられることがあってはならないとする思想)にもつながる部分があるのだろう。

『お前なんか産まなきゃ良かった』と『誰も産んでくれなんて頼んでない』という古典的な親子ゲンカのやり取りの今風の思想化であるが、かつては『お前も人の親になればお母さん(お父さん)の気持ちが分かるよ』という落ちで体験的に納得させられていたものである。

しかし、現代の未婚化・少子化や意識的(経済・環境・トラウマ等)あるいは理性的な出産回避、社会・労働・家庭などへの不適応(無理にマジョリティ的な適応をしても個人的な喜びがない)などもあって『帰結主義的には初めから生まれないほうがあらゆる苦痛や不満をゼロにできるので良い(すべての人間存在がなければすべての問題や不満もない)』とする緩やかな滅亡・無為を推奨する反出生主義にまでエスカレートする人が出てきた。

反出生主義は、既に生まれてしまった自分自身はもう『産まれる前の時点』には引き返しようがないが、『これから生まれる子供に苦痛・不遇・死の可能性を与えること』は『エゴイズムの悪』なので、できるだけ控えることが望ましいとするものだ。そこにある本質は『まだ生まれていない子供の視点+子供に対する極端に重い責任の想像(これから生まれる子供は予定調和的に完全な幸福・快が保証されなければならないが人間は必ず死に必ず誰かが不幸になる)』というものである。

だが現実には、今存在している自分も他人も『既に生まれてきてしまった存在』であり、多くの人が『今日明日すぐに死ぬわけではないある程度長い人生の時間をどのように生きるか』を問われている実存的な存在である。

その問いに対して、大多数の人は色々と嫌なことやつらいこと、苦しいことがあっても『生まれてきたからには何とか少しでも楽しいこと・意味や価値のありそうなこと・面白いこと・誰かの役に立つことを体験したり実践したい』と願うものであり、ネガティブな体験や感情があるからとかいつか必ず老いて死んでしまうからいって今すぐに自殺するという人はそういないはずである。

子供を産む行為も産まない行為もその根本にあるのは『不完全な人間の人生・自我が運命的に背負わされている意味・価値の重圧に対する対処法』に過ぎないとも言える。

反出生主義は『苦痛・不幸・無意味』を何とかして決定的に避けたいと願い、生まれてきてしまった自分はもう無理でも、『これから生まれる子供』を生み出さないこと(今いる人間の生物学的なエゴイズム・性的欲求を抑止すること)で、決定的にあらゆる負の体験・知覚を消滅させられるというのだが、これに対する理性・ロジックによる反論は『多くの人は別にすべての苦痛・不快・不幸を完全消滅させることを目的にしていない』ということだろう。

反出生主義は『次の世代を無くすことから始める人間世界からの苦痛・不幸・無意味の駆逐』を大義名分として掲げるが、ここにある論理的誤謬は『人間存在が出産で再生産される限りは苦痛・不幸・無意味がどんどん蓄積していくという考え方』である。

『苦痛・不幸・無意味を感じている個人』はどれだけ長生きしても約80~120年の時間があればその存在は自然に消滅してしまい、そういった負の感覚が他者と共有されてどんどん人類全体で蓄積されていくわけではないからである。

石器時代にも中世の鎌倉時代にも江戸時代にも『こんなに苦痛や無意味があるなら初めから生まれてこなければ良かったという無念・不満・虚無』を残してあの世に逝った人や自殺した人もたくさんいただろうが、どこの誰がそんな反出生主義的な思想を感じていたのか、嫌なことばかりで死んでいったのかなんて現代になってしまえばもう誰も分からないのである。

『次の世代の子供』はまだ赤ちゃんのゼロの状態から人生を始めて喜びも苦しみもあるさまざまな体験をして成長し成熟し老化していく、そんな赤ちゃんでさえもどれだけ長くても約120年後にはその存在・意識を消滅させてしまうわけである。

『相対的に楽しみが多くて納得・感謝をして安らかに死んでいった個人・人生』であっても『相対的に苦しみが多くて不満たらたらで苦悶・怨恨の表情で死んでいった個人・人生』であっても、死んでしまえばその人にとっての生の総決算や意味づけがどうであったのかなど最早遠からず分からなくなる。

後世をゼロから生き始める新しく生まれた次世代の人にとっては、『極限の苦痛・絶望・虚無』があって、こんなことなら生まれてこなければ良かったと思いながら虚しく死んでいった人がいても、どうでもいい話になってしまう(決して自分以外の別の時代の他者に降り積もるように苦痛や無意味が蓄積などしていかない)のである。

反出生主義は『次の世代を無くすことから始める人間世界からの苦痛・不幸・無意味の駆逐』を大義名分として掲げているが、これは自分がいつまでも死なずに人間が最後の一人になって滅亡するまで見続けているという『不老不死の神の視点』を前提にしなければ成り立たない超越的な価値観である。

つまり、神ならぬ歴史的時間をそんなに長くは観察できない人間である以上、『人類のあらゆる苦痛の消去などと大げさな事を言ってもあなたはどんなに踏ん張っても100年後にはもうこの世から消滅していて二度と同じ自我意識を持って未来に生まれ変わることなどできないのだから、自分や他人の出産があってもなくてもどっちでも一緒である(生きられるだけ生きたら安心して死んでいけばいいというか、人類の遠い先の未来がどうなるか分からず死ぬしかない運命をどうしようもできない)』で論理的に簡単に否定できてしまう。

人間がエゴイスティックな不完全な存在であり、苦痛や死(自我・記憶の消滅)を究極的には回避できない重たい運命を背負っているからこそ、人は『家族形成・子孫存続の出産』をしたり『反出生主義による白か黒かの非現実的な決定』をしたりせずにはいられないのだが、これらは結果から言えば『自分を納得して落ち着かせるための必死の悪あがき』でもある。

反出生主義の人は子供を生み出すことはエゴイズムの悪であり、人間の存在・意識が出産で新たに生み出されることで『人間世界にある苦痛・不幸・無意味の完全な消滅』が実現できなくなるとするが、そういった諸々の潔癖すぎる倫理的な善悪は言い換えれば『神のような完全な存在(永遠に苦痛なき快を体験して世界を観察し続けられる存在)でなければ世界に存在する意味がないとする傲慢さ・自己愛の変形』でしかないだろう。

結論から言えば、エゴイズムで子供を作るのは子供を不幸にする悪ではないかと批判されても、不完全な人間は究極的には無意味な存在であり絶望するしかないではないかと極端な帰結主義で論難されても、人間社会の中で不幸になったり苦痛を味わったり憎悪を抱いたり犯罪者やテロリストになったりする人(差異に苦しむ人)が確率的に生み出されても、それでも人間の多くは『自分の生きている時代・時間に何らかの意味や価値、痕跡を与える一手段としての恋愛・結婚・家族・出産』をやめることはないだろうし、それらをやめたからといって『人生の重圧の軽減』が得られるものではない。

子孫を産んでも産まなくても幸福でも不幸でも『自分に与えられた有限の一回限りの時間』をどう生きるかどういう納得の仕方をするかということ以上の『超長期的な人類・他者の命運』まではどう足掻いても関与しようがないし、産むべきにしても産まないべきにしてもお節介の域を出ない(人間は自分の生の重圧や問いかけに対して産みたければどうやっても産もうとするだろうし逆であればどうやっても産まないだろう)、そもそも100年以上先の人がどんな状態にありどんな思いを抱いているのか知ることすら絶対的に不可能なのであるから。

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「生命(個体)の継続を否定する『反出生主義』にどう反論できるか?、出産・人類の継続を理性・理屈で論理的に肯定できるか?」への11件のフィードバック

  1. 蓄積ってそういうことじゃによね

    貴方のロジックによれば犯罪を犯して苦痛を与えても
    それは被害者の死をもってなくなるから問題ない

    という誰の視点かわからない話になってしまうね

    1. 出産と犯罪を同一視する前提であればそうなるでしょうが、『当事者(本人)の生における快と苦痛のバランス』は生まれてみないと分からない点で、『悪意・被害ありきの犯罪』とはやや異なる面もあるとは思います。

      初めから生・自意識がなければ快も苦痛も何もないからそれが一番望ましい状態である(余計な葛藤・苦悩・努力・試行錯誤など一切ないほうが人の問題や不幸そのものがない)という反出生主義もロジックの説得力はありますが、『良いも悪いも判断する主体(自意識)そのものがすべて消滅した世界』というのもまた、それが実現したとして誰の視点か分からなくなるところはありますね。反出生主義は、自分について考えたり迷ったり、他者と比べたりする主体・意識そのものがゼロであれば、あらゆる苦痛や悩みはなくなるのにという意味では、確かにそのとおりだというしかない思想ではあります。

      確かに、生まれてきて苦痛や嫌なことのほうが死ぬまでずっと勝っている人、途中で絶望に圧倒されて自殺や犯罪に至ってしまった人など、『出生があったからこそ不幸・被害が生まれたケース』もあるし、『結局、いつかは老いたり病気になったり死んだりするから生まれないほうがいい』とか『他人と比べると必ずしも優位ではなかったり思い通りにならないことも多いから生まれないほうがいい』とかいう価値観もあるだろうとは思います。

  2. 反出生主義の立場の者です
    いくつか疑問点があり、再度、ご意見伺えればと思いコメントしました。
    まず、反出生主義に対する反論を以下のように解釈し疑問点を列挙してみましたがどうでしょうか。
    ➀有限の寿命を持つ個人は新たに生まれてくる他者の不幸の減少を論じても意味がない(自分に関係ないことについては論じる意味がない)→もしこの論理を肯定するならどんなに人を傷つけても自分に不利益がないなら全く問題ない、というモラルとして破たんした結論が導かれることになりませんか?例としてダイヤモンド会社がアフリカで暴力的に現地の人をダイヤモンドの採掘に従事させても非難されなければ問題ないということになりませんか?②反出生主義が広まっても個々の人間の苦痛は減少しない→反出生主義はまだ生まれていない子供の権利を最大限に尊重することが本質ですが、生まれてきた人についても可能な限り苦痛を最小化する生き方を提唱する主義であると私は考えています。その意味でも、反出生主義を語ることが生きている私たちにとってそれほど無用のものではないとは考えられないでしょうか?
    以上です。最後になりますが、全体として『考えても無駄なことは考える必要はない。なるようにしかならない』という諦観をもっておられるように感じましたが、それは『そのような世界に、あえて生まれてくる価値、あえて子供を送り出す価値はない』という反出生主義とそれほど相反する主張とは感じられませんでしたが、その点についてはいかがでしょうか。主さんは「それでも、この世界には生きていくだけの価値がある」と考えておられるのか、もしそうならなぜそう思われるのか、真剣にお話をお伺いしたいと思っています。パソコンに不慣れなこともあり、稚拙な文章で恐縮ですがお話を伺えればと思います。

    1. 興味深いコメントをどうもです。

      まとめてくださった項目ごとに簡単ながら返信させてもらいますね。

      1.『有限の寿命を持つ個人は新たに生まれてくる他者の不幸の減少を論じても意味がない』は、子供の出産と人生の付与が社会一般の共通理解として『人を傷つける行為』としてまでは承認されていないということ、子供に親ができる範囲で愛情を注いで子の能力・希望に応じて応援しながら養育すればとりあえずの養育責任は果たせるということ(無理やりに生を与えたのだから死ぬまで一切の不幸・苦痛・恐怖・屈辱・劣等感などを感じさせるなというレベルの究極的な責任履行は無理ですが)があります。

      無論、最終的・確率的(哲学的)な帰結として『世界に生み出されること=子供本人の了承を得ていない理不尽な加害性の強い行為+何らかの嫌なこと・苦痛なことがある不幸(最後はみんな老化や病気で苦しんで死んで終わってしまう)』という解釈も成り立ちますから、自分自身が反出生主義に基づいて産まない(子供を持たない)というのは『生=苦・面倒・無意味・強制の解釈』を前提にすれば正しいと思います。

      『自分に関係ないことについては論じる意味がない』というのも、社会一般の共通理解を前提にしているか、哲学的・論理的(帰結的)な理屈を前提にしているかで変わってきますが、出生・人生・苦楽の波を肯定する人に対して『説明・説得・説諭』をする自由はあると思います。

      説得する自由はあると思いますが、結論としては、『今この時』を一生懸命に生きるべきとする価値観を持つような人(与えられた生をどうにかして生き抜いて自分なりの楽しみや意味を見つけ出して納得して運命に従って死んでいくべきとする人)には通じないし、人類がひとりも子供を産まないレベルにまで反出生主義で啓蒙される可能性はゼロに近いでしょうね。

      『もしこの論理を肯定するならどんなに人を傷つけても自分に不利益がないなら全く問題ない、というモラルとして破たんした結論が導かれることになりませんか?』は、哲学的・論理的(帰結的)な理屈を前提にすれば出産は確率的に人を傷つけることになるかもしれませんが、現実世界は『生者の世界(生を肯定的・死を否定的に捕える世界)』ですから、出産して育児するだけでは大半の人は『非難すべき加害行為』とは解釈しないということですね。

      ロジックとして反出生主義は完璧で穴はなくて、『すべての知的な認識主体(人間)が存在しなくなれば誰も苦しまない・すべての個体はいずれ死ぬので最終的には意味がない(誰もが何も認識できなくなり想像もつかない死=絶対無に落ち込むことになる)』というのはおそらく真理です。しかし、そのネガティブな真理を受け容れて大人しく悲観的に死を待つだけの人生に耐えられるほど、大多数の人間は意志堅固ではなく強くもないというのが現実です。

      どうしても無為自然ではいられず何らかの生きがいを自分なりの行動(有意の努力・あがき)によって求めてしまう。お金(豊かさ)にしろ異性(快楽・安心)にしろ子供(未来の希望)にしろ、究極には個人のエゴ・弱さによる運命への抗いかもしれませんが、抗わずにいられないほど人間にとって無意味さは怖いものではある(無意味と思って死んでいき一回限りの生のすべてが終わってしまうのは恐ろしい)と思います。

      2.反出生主義が広まっても個々の人間の苦痛は減少しない→反出生主義はまだ生まれていない子供の権利を最大限に尊重することが本質ですが、生まれてきた人についても可能な限り苦痛を最小化する生き方を提唱する主義であると私は考えています。その意味でも、反出生主義を語ることが生きている私たちにとってそれほど無用のものではないとは考えられないでしょうか?

      これについては、大多数の人にとって『自分自身の苦痛の減少・楽しみの増加』が課題なのであって、『未来世代の子供の苦痛の減少・楽しみの増加』はできるだけ人生を楽しめるように応援はできますが、親が子・孫の生を完全に肩代わりすることはできないという認識で終わるだろうと思います。

      言い換えれば、苦痛・嫌なことも多いけれど、それなりに楽しいことや面白いこともある大多数の人(特に自分の能力・魅力にある程度の自信がある若い人たち)は『反出生主義の決定的な苦い薬の処方箋』よりも『出生主義の確率的な飲みやすい薬の処方箋』を選んでしまいやすい。あるいは、自然に仕事・異性・結婚・出産などに価値を見出すような人生や人間関係にいつの間にか取り込まれて流されていくものでしょうね。

      生まれながらにすべてが苦痛・嫌なことばかりであれば、確かに『反出生主義の処方箋』は苦くて厳しい真理ですが、我慢してそれを飲みやすい心理状態・認知傾向になります。

      逆に今までそれなりに楽しいことや面白いこともあって、目の前に自分を好きになって期待してくれる恋人なり配偶者なりがいれば、究極的には無意味かもしれないが、生きている今の自分にとっては意味があるということで、その快楽・報酬・楽しさの予感の誘惑に負けてしまうのが人の現金なところでしょう。何だかんだで上手くいっている時や自分に自信が持てている時には、人は『究極的な真理』よりも『暫時的な損得』に動かされやすいものでもある、その背後で『どこかの誰かは必ず苦しんでいる現実』は確かにありますが。

      『反出生主義を語ることが生きている私たちにとってそれほど無用のものではない』は、究極的・帰結的な真理をずっと見つめて静態的に死の時までを待てるようなタフな精神力があれば、反出生主義はあらゆる苦悩や迷いの大元である認識主体を滅する(自分はそれだけの真理に準じた生き方を成し遂げてみせた)という意味で有益であり思想的な満足感をもたらすと思います。

      しかしこれは禁欲的な修行僧も顔負けの『精神部門の荒行』に近いものでもあって、環境・境遇・心持ちがその真理探究に適したものでないと、中途で(楽しみの増加・意味の解釈・ポジティブな自己洗脳の)誘惑に負けての宗旨替えもあり得るかもしれません。

      ○『考えても無駄なことは考える必要はない。なるようにしかならない』という諦観をもっておられるように感じましたが、それは『そのような世界に、あえて生まれてくる価値、あえて子供を送り出す価値はない』という反出生主義とそれほど相反する主張とは感じられませんでしたが、その点についてはいかがでしょうか。

      反出生主義は論理の展開や理屈の正しさにおいては穴がありませんが、人間の一生は短いようでいて長く、そのプロセスでは『苦痛の減少』だけではなく『楽しみの増加』ができるかもしれないという誘惑もあります。

      多くはその楽しめるかもしれない誘惑に屈したり(人並みの人生・充実した仕事・魅力的な異性が得られそうであれば大半はやはり究極的に無意味と分かっていても思わず手が出てしまい、そこに責任や義務が生じて絡め取られてしまいます)、生はまったく無意味だ(生まれてこなければすべての苦はなかった)と本気で思って死を迎えるのはやはり怖いというのもあるんでしょうね。

      個体の生は最後は無意味になって、子供への生の強制が理不尽だと分かっていても、年齢や境遇、チャンスに見えるものに、人の心はぐらぐらと揺らされやすい不完全さを持っていて、『苦痛の減少』と同じく『楽しみの増加(可能性と感じるものの拡張)』にも貪欲になりやすい。不完全で真理に徹しきれない、無の境地にはなれないからこそ、子供はまた生み出されるのだとも言えますし、長期的スパンでは『私という意識・さまざまな思想を持つ主体』も100年持たずにあっけなく消えて、赤ちゃんから始まる次世代の自意識がまたゼロからスタートしてしまう(それが生物の業といえば業なのですが)のだと思います。

  3. 丁寧に返信を返していただけて本当に嬉しく思います。
    ありがとうございます。
    再度、(相当に強引であることを自覚しつつ)主さんの主張全体を私なりに以下のように解釈してみました(間違っていたらご指摘いただければ幸いです)
    『反出生主義は論理として妥当性はあるかもしれないが、現実論として無理がある』
    『生きること(に伴う苦痛)は無意味であるとする反出生主義には論理とは別に感情として受け入れがたい』

    この二点に共通しての再反論としてこれはまさしく主さんが回避しようとしてきた現実論・感情論からの反出生主義への批判ではないかという意見は成り立つように思われます。

    しかし、同時に反出生主義者として、過剰な意見の表明は他者を不当に傷つける可能性があることを自覚する良い機会を頂けたとも感じました。

    私からの意見は以上であり、主さんからご意見がなければ議論を一度終着させたいと思いますがいかがでしょうか。

    最後になりましたが、ご多忙の中、コメントを返信して頂き本当にありがとうございました。

    1. 返信が遅くなってしまいましたが有意義な視点からのコメントのやり取りをありがとうございました。

      『反出生主義は論理として妥当性はあるかもしれないが、現実論として無理がある』というのは、大半の人は論理的な帰結に従って生きているわけではなく、また反出生主義に従って論理的・倫理的に生きようとしても、死を待つような形で生き抜くことは難しい(そこまで自我意識・人間存在の絶対的な無意味さを悲観的に受け入れられるなら自殺する可能性も高い)というのがあると思います。

      論理的な帰結だけを重視すれば、時間軸を長く取れば、人はどれだけ努力が実を結んで良い人生を生きられても(環境・運・出会いが良くて楽しいことが大半で長生きしても)約100~120年しか生きられず、その途中で老いて弱っていきあれこれ苦しみます。そう考えれば、どんなに幸福な人生や偉大な業績があったとしても、『最終的には出産育児・仕事を含むあらゆる人為的な努力は無意味である』とも言えます。

      しかし、人間の主観としての約100年の時間は『何もしないには相当に長い』というのもまた事実で、若い頃から一貫して(よほど大きな挫折・苦悩や悟りの気づきの機会に出会わない限りは)『人間の存在・人生のプロセスには意味がなくて生まれてこないほうがマシ(一切何もしなくて良いし苦痛や劣等感もなくて楽)だからという姿勢』を貫き通すのは極めて難しいものです。

      仕事・恋愛・結婚・出産育児・家族形成・芸術や娯楽などもそれなりに順調に進んだり最終的にプラスに解釈できれば『それなりの幸福感・納得感』もありますから、その誘惑に自然に負けてしまうことも多いでしょう。

      『自分一代で終わりにすべく死を待つ生き方』が論理的・倫理的に正しいものであるとしても、『不完全で弱い人間』はどうしても自分なりの意味や幸せを少しでも感じたいと思って足掻いてしまうんでしょうね。

      おっしゃるように、『現実論・感情論からの反出生主義への批判』に傾いてしまいましたが、大多数の人間は『理性・論理・言語に従った世界』で静態的に何もせずに生き抜くことができないし、『自分の努力や解釈(自己洗脳)によって得られる喜び・幸せ』によって自分の存在や子供の誕生を良い方向にも解釈できる(子供の生が実際にどのようなものになるかの結果責任を負えないという意味では反倫理的な側面はあるにせよ)ということでしょうね。

      現実の一面として、『初めから生まれてこなければこんなにつらくて苦しい思いをしなくて良かったのに』や『初めから人間が存在しなければすべての苦痛・悩み・迷いは消え去って完全な倫理が達成できるのに』という反出生主義の考え方はありますが、その考え方はあってもそれを本当に我が身を賭して実践して死んでいける人(楽しめそうなチャンスや望ましい異性からのアプローチがあっても敢えてそれを捨て去って無為・孤独に徹して死んでいける人)の絶対数が少ないですね。

      誰ひとり苦しまない恨まない絶望しない完全な世界(自意識の強い知的生命体のいない世界)を作るためには、反出生主義は唯一の正しい思想かもしれませんが、利己的遺伝子の支配を受けている動物の側面を併せ持つ人間は、『自分や周囲がそれなりに楽しめている状況』では論理的・倫理的な思考実験として反出生主義を受け入れても、自分自身がさまざまな楽しみの可能性をすべて捨ててまで『反出生主義の実践主体にはなれない(相当に理性的な人であっても、自分に希望や楽しみのチャンスがあればそれを何とか生かそうとしてしまい結果として子供もできやすい)』というのがありますね。

  4. ザリガニやカブトムシをすぐ死なせてしまう子供に対して親が
    「大切にできないなら飼うな」と言ってるようなもんで
    実際に飼うのを辞めなかったとしても
    大切に飼おうと思えるなら意味がある
    日本のように社会的弱者に冷たい国なら尚更

    1. 反出生主義の倫理的な確からしさを除いても、現代の先進国で子供を持つのであれば、ペットを大切にする以上の『子供の主体性・希望・愛情欲求に配慮した責任のある育て方』が求められるというのはおっしゃる通りだと思います。

      一人の人間の自意識・権利・納得が現代ほど重視される時代は過去にはなかったわけで、『あらゆる苦悩をゼロにすること』まではできなくても、生まれた以上(生んだ以上)は『自分の人生に少しでも納得・満足できる要素』を増やしていくしかないといえばないですからね。

  5. 返信ありがとうございます。
    私は親という個人を非難したいわけじゃないんですよね
    子供というのは社会の意思で産まれてくるわけで
    社会が望んで新たな生命を誕生させておきながら
    役に立たなければゴミのように扱うなら
    最初からつくらせるべきではないと思います

  6. 「80年努力して生命・生活を維持して老いて病を甘受しそののち死ね」
    生むってこういう課題を強制的に押し付ける行為に他ならない
    一体誰にこんな権限が?

  7. みなさん難しいこと考えますね
    私は単に人生が苦しいばかりで何も楽しくないから、自分の子供にこんな思いさせたくないなと思って産みません
    他人がどうしようがどうでもいいです
    私の子供のことを考えると、私には子供は産めないなと、それだけです
    そこに特に理念も正義もありません

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