司馬遼太郎が高度成長期前の景気・給料の悪かった(会社勤めが増え始めた)昭和30年代にサラリーマンは『良き伴侶を得て家庭を作る為に働く家庭業』と記したが、旧時代のジェンダー(結婚出産が当然の時代論)と同時に現代にも通ず『勤め人が仕事自体が嫌でも働く意味』を示す。今の若者が勤め人に苦悩し迷う由縁でもあるか。
司馬の語る『サラリーマン』と『芸術家』の価値観や生き方の差異と、いずれの生き方をしても貴賎はなく運命を享受する他ないとする物言いは共感させられる部分も多いが、こういった処世術的なエッセイを書いていた時代の司馬はまだ新聞記者の一介のサラリーマンで、歴史小説家として踏み出すか迷いの時期でもあっただろう。
こういった話とも不思議と重なるが、現代の20?30代のイケイケ風の若い女性が書いたエッセイに『散々やりたいことをやって、結婚・出産でもしないとやることがなくなった(何をしても同じ事の繰り返しに感じた)』と書いていてなるほど確かに多くはそこに行き着く、司馬のいう家庭業としてのサラリーマンとも関連する。
司馬は一生をかけても飽きずにやれるライフワークを持つ生き方を広義の『芸術家』と定義し、サラリーマンは家庭(配偶者・子)に人生のコンパスの軸足を持つが、芸術家は究極は自分のやりたいことの周縁・付属に家族があるので必ずしも良き家庭人・稼ぎ手にはなれないと論ずる。これもまた歴史的事例と符号する点が多い。
通俗的な処世訓として『何かを捨てなければ一般的な幸せを得られない』が、サラリーマン(労働者)としての苦悩の中心は『自発的なやる気・没頭に至らない仕事』で生活のためだけの日々を費やす事だが、現代の労働問題にもその要素はある。価値観やライフスタイルの多様化はあるが、働き方と生・価値の軸足は普遍性を持つ。
毎日、確実なタイムスケジュールに縛られるわけではない自営業・自由業・フリーターなどの働き方であれば、仕事内容・実労働時間によってはライフワーク的な要素も出てくるが、一日の大部分を会社・組織に縛られる働き方をするならば、大切な誰か・自分の居場所のための家庭業の要素もないと何十年も続けるのは容易でない。
本当にやりたいことを捨てて(あるいはライフワーク的なものを持てずに)の会社員・公務員の長期的な職業生活において、心身の健康を崩したり最悪は自殺するようなケースもあるわけだが、『大切な誰か・自分の居場所・軸足となる家庭』などがなかったり途中で崩れるとすれば広義の芸術家になれない労働者は弱らざるを得ない。
現代はその意味では、広義の芸術家らしき人たちも増えてはいるのだが、人生は長く険しく何が起こるか分からない、司馬のようにサラリーマンからの作家転身で生涯死ぬ寸前まで好きな文章を書き続けられたような人は特殊な事例であって、なかなかに自らの生全体をぶれずに貫徹し得る仕事・活動を持つのも難しいものだろう。