紙の本を読む事だけを『読書』と定義すれば読書する人は減ったし、『小説的な活字・長文のフィクション』や『古典・名作の定番』を読む人は更に減ったが、『意味のある文章を読み書きする量』はネット時代で逆に増えたかもしれない。
同じ読書でもフィクションかノンフィクションかでかなり違うし、娯楽(創作された物語を読む楽しみ)か広義の勉強(情報・知識・話題のインプット)かの目的によっても全く違う。相当な冊数を読む読書人でも、小説を全く読まない新書・学術書の事実ベースの読書が好きな人と小説しか読まない人は、共通点は乏しいだろう。
今の時代は読書以外の娯楽も多く、『読書をしなければならない』わけではない。読書する人が幸せで得をするとか、読書しない人が不幸になり損をするという話でもなく、『読書をしないが故のシンプルな人格構造・現実即応の適応力』で楽しくやれる人も意外に多い。読書も思索も過ぎたるは猶及ばざるが如しもまた真な所はある。
大人になっても自発的に本を読む人、終わりなく次の読むべき本が常に手元にある人は『なぜ読書をしなければいけないの?』の問い以前に、『知識欲・物語欲・実用性・趣味・普遍的な概念化などからどうしても読書をやめられない人』であるだけである。本を読む人と本を読まない人の行動原理や語彙・情報量は違いは出る。
なぜ『読書』が歴史的に重要な行為とされ続けたのかの原点は、『識字能力・読解力・言語運用・語彙の広さ』が知性の基盤や知識階級のメルクマールとされた時代が長かったから。20世紀初頭までは『難解な本が読める読解力』と『教養人に共通の読んでて当たり前の人文系の定番』によって知性・感性が値踏みされたりもした。
だがインターネットの登場(あらゆる情報の検索可能性)や学歴社会(読書人的な教養主義)の経済階層規定力の流動化で『読書体系で形成されていた教養主義』は衰微した。現在の読書の多くは趣味・娯楽か知識・情報か実用的な勉強の目的だが、色々な本を読む事で『人間・世界の多様な側面』に触れられるメリットはある。
ジャンルを問わず読書が好きという人の多くは、知識欲や好奇心、想像力が強い共通点はあるが、その根本には『言葉・表現・知識・物語を通した感受性(意味認識)』の強さのようなものがあるのかもしれない。非実用の読書は、自分の経験や存在だけに拘束されない言葉が生み出す精神の遊びや象徴界=言語界の拡張でもある。