妊娠・育児中の侮辱や罵声、非難は『根本的性格の断片』がでやすく、その場だけの気分・感情では片付けにくい。DVのトラウマや弱っている時に責められた遺恨(人間性嫌悪)は完全に消えないことも多いが。
『熱があっても家事・ケアをしないと不機嫌になる』『病気や体調不良の姿を見せると怒り出す』などの(自分に注意・世話が向いてないとダメな)好ましくない性格傾向も重なるが、男女・夫婦関係の修復困難な末期症状では『弱っている時に相手と共にいたくない(老いて弱る時に傍にいてほしくない熟年離婚)』はあるという。
男女・夫婦に限らないが『相手が弱っている時・病気や妊娠含め体調が悪い時』に傍にいてほしいタイプ(回復や癒しをフォローできる人)と傍にいてほしくないタイプ(愚痴や不満、批判を漏らし余計負担が増えるだけの人)とは分かれるが、モラハラや心理的DVの言動矯正教育は本人が自覚しないと困難で相当な時間もかかる。
心理的DV・モラハラと関連する性格や人格構造は、異性として好きかどうか、楽しい時間やイベントで盛り上がれるかとは相関しないことも少なからずあるが、『どちらかが弱った時や困窮事態における相互の人間性の相性(片方が病気・不調で気配りやケアができなくなった状況下)』は若くて順調な時には盲点になることも。
利他の恋愛・結婚も現実には難しい部分が多くなった。昔の結婚生活や介護・世話は『仕事が乏しかった女性の自己犠牲の奉仕』で成り立っていた面も強く、『男性同等以上の勤務・収入がある女性』だと、仕事・育児・世話もして介護まではやりたくないし、『本当の愛とは何か(愛と定義されていたはずのものが美しく甘美なものなどではなく相互扶助や老後介護ではないか)』との迷いも増えてしまうだろう。
完全に利他的な恋愛・結婚というのもないのかもしれないが、『相手のイレギュラーな負担の多い状態への変化(病気・老衰・貧苦など)』があった時に、夫婦や恋人である相手を助けないとか見捨てるとかいう人も全体では多くはないはずである。助ける献身性の度合いの違いはあるかもしれないが、『継続的な信頼・安心』を成り立たせる為にどこまで出来るかが『愛の強度』なのかもしれない。
一方、現代の根本的問題として、ストーカーや夫婦間暴力も含めて『特定の相手を愛することとは何か?』は、義務的な結婚(生活の互助のための結婚・子育て)が衰退してきた現代では分かりにくくなった。自分の為に良くしてくれる善人を必ずしも一番好きになるわけではない矛盾だったり苦悩だったりもある。
『人間存在の生物学的な本質論』のレベルだと、恋愛も結婚も『リチャード・ドーキンス的な遺伝子の乗り物としての人』がどうすれば自己遺伝子をより有利・効率的に残し守れるかという利他的愛情と別の話になるかもしれない。DNAの複製の生物学的な仕掛けを超える『精神・愛』を持つ可能性を信じたいのが人でもあり、そういった可能性を信じられないと人の精神は荒廃してしまいやすい。