既婚者同士の『セカンドパートナー』は、住居・生活・家計を共有しない気楽さに支えられたものに過ぎない:結婚・恋愛・性は色々違うけれど欲張って相手を傷つけても仕方ない。

誰が一番人生・家庭にとって必要かは明確だが、誰と気が合うか(話して楽しいか)はセカパ云々の関係がなくても流動的かも。だが結婚は人・関係が変わるからこそ契約としてある。

友達以上、不倫未満? 既婚者同士の“セカパ”関係はなぜ続く…そのリアルな実態とは?

思考実験では、そのパートナーと結婚しておらず同居していなくても、『そのパートナーと毎日に近いくらい会うか・結婚してない関係でも今でも付き合っていたか』というと大半は会わないし別の相手と結婚していただろう。結婚・夫婦の理想である精神的・愛情的に求める心の維持は努力と相性、一人だけへの集中を要す。

一緒の家に居るのが当たり前になり、生活共有による嫌な部分ばかりが見えると、時間と労力のコストをかけてでも毎日会いたいと思える相手にはなりにくくなるが、セカパ云々もまた『いつも一緒にいない・生活や家計が別で生活態度やカネで揉めない』からこその魅力・幻想があるだけで一緒になれば同じ顛末の恐れが強い。

逆に、いつも一緒にいるのにどんどん好きになれる人だとか、生活共有によって今まで見えなかった好ましい部分(魅力に感じる部分)が増えてくる人であれば、『セカパ云々の需要』自体が生まれないだろう。だが男性も女性も『釣った魚に餌をやらない型』がやはり多い。居て当たり前だと相対価値を低下させる可能性が出る。

根本的な差異としていえば、生活・仕事・家庭は『反復する日常のリアル』であって、たまにおしゃべりしたり食事したりするだけの異性は『滅多にない非日常の刺激・遊び』だから、単純に比較対象にするのが間違っているし、セカパとの楽しい関係も『毎日一緒じゃない・カネや生活の利害が別』だから嫌な面が出てこないだけ。

そして自分一人で自立する以上にバリバリ稼いでいる女性でなければ、『毎日一緒じゃない・カネや生活の利害が別』でもセカパとのんびりやり取りできるのも、『メインのパートナーのケア・収入と合わせた安定基盤』があるからという理由もある。その意味ではメインのパートナーありきのスコラ(余暇)に過ぎないケースも。

結局、話したり一緒にいて楽しいとか魅了されるとかいったことを『自分の本当の気持ち云々』と考えるのが馬鹿げているというか、向き合って話してくれる一定以上の知性・感性・容貌を持つ異性であればそれなりに魅力があるのは当たり前で、あちこち浮気したら切りがないし家庭・親子が壊れるから結婚制度の規範があるのだ。

また宿命的な加齢・老化によってそういった『欲張った別の異性への欲望』は弱まっていくことも多いもので、『見かけの老化・体力気力の低下・病気がち・先の時間の少なさ』などからいずれ人は『今ある夫婦・子供・家庭を大事にすべきという価値観』に行き着くことになりやすいだろう。

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