なぜ現代日本では子供の人口が減るのか?:他者との比較競争とコミュニティを失った個人の自己責任化・孤立化

近代化による『経済成熟・自由主義・個人主義・市場原理(資本主義)・男女平等』の進展は、個人の幸福追求と他者との比較競争を煽ることによって、動物的な生存・生殖の本能やコミュニティの互助・平等の意識を衰退させ、半ば必然的に高度経済成長期後の少子化トレンドと階層社会の固定化を生み出す。

昭和中期までの人口が増加を続けていた時代というのは、個人やその人生が長期に所属する『家族親族・地域・会社(役所)・社会・国家』の共同体(コミュニティ)にすっぽりと埋め込まれていた時代である。

その時代、人生は『自由意思や自己責任』で個人がそれぞれに選択するものというよりは、『同調圧力・社会規範(所属階層の常識)』によって就職・結婚・出産など『社会や世間でやるべきとされていることをやっていくプロセス(やるべきことをやらない人への偏見・差別が強く大半は道を外れられないし周囲に干渉される)』に近かった。

結婚のかなりの部分は『適齢期・世間体・家格』の関係したお見合いであり、出産は概ね女性の義務に近いもの(女性が一人で自立して結婚も出産もせず生きることは現実的にも差別の圧力的にもほぼ不可能で、生活を庇護してくれる旦那を見つけられるかが生きるか死ぬかに近い問題)だった。

一方、男性はハードな仕事や戦争で死ぬことも少なくない『労働力・兵隊』として社会システムを維持する部品に近く、女性だけが苦労や我慢を強いられていたわけではない。高度経済成長期の会社の働かせ方は、現代のブラック企業を凌駕するものである、炭鉱・港湾・工場・土木建築のハードな肉体労働では頻繁に労災が起こり事故で死人が出たり深刻な身体障害を負うことは珍しくなかった。

近代化で成長していく過程の国家・社会は、個人の自由や人権を『過酷労働・戦死もある徴兵(戦争)・組織の上下関係(軍隊・会社など上下を区別する擬制身分)』などで蹂躙しながら成長・拡大を続けていく『荒ぶる巨大な生産システム』としてフル稼働する。

右肩成長を続けるフル稼働する近代国家・経済社会というのは、未だ成熟も洗練もしていない庶民が知識や理屈を持っていない荒ぶる巨大な生産システムである。ほとんど全体主義的と言って良い巨大な生産システムでは、人間というのは労働・徴兵・結婚・出産・納税(保険料納付)の役割を果たすための部品・部分のようになってしまい、『社会全体の利益・経済社会の生産力・コミュニティの同調圧力』によって個人の人権も自由意思も好き嫌いもがっつり呑み込んでしまうことができる。

『権力・地域・法律・世間体・倫理・慣習・教育』などによって、半強制的に『一般庶民が国家・社会・組織のためにやるべきこと』を刷り込み、労働・結婚・出産のシステマティックな再生産体制に、人々を自動的かつ自発的に組み込んでいくことができた。

愛国心や愛社精神、郷土愛といったコミュニティへの帰属意識がそれを後押ししたし、個人が一人や少人数で生きていけるような仕事・職種・生き方がそもそも少なく(大きな集団組織に属していないと何かと困難になって苦しみやすく)、イエ制度と世間体によって『親・親族・地域の監視や干渉』をくぐり抜けられるような人は滅多にいなかった。

ヒトと経済の再生産体制に組み込まれない自我の強い人(多数派がわがままと見る人)や逸脱する人に対しては、厳しい偏見・差別の目を向けることでシステム(みんながそう生きるべきとする慣習的規範)の外に簡単に出ることはできないようになっているわけだが、昭和中期までの『人口増大』の局面を支えた国民は個人としての熟慮・選択(将来も安心できる雇用・社会保険の保障)で大勢の子供を産んだわけではなく、社会全体の再生産体制の義務・慣習・干渉の中で早くに結婚して多産になる傾向を持ちやすかったのである。

また戦後暫くまでは、庶民にとっては親も子も学歴がないこと(子供に高度な教育を受けさせられないこと)や経済的に貧しいこと(ボロ・お古を着まわしして近所と食材・調味料を貸し借りして最新の家電や商品はなかなか買えないこと)が当たり前で、『貧しさの平等度』が高かったために『貧困=恥の感覚,子供の希望する進路を応援できず申し訳ない』に悩むことも今ほどはなかった。

現代の少子化の最大の要因は、高度経済成長が実現した『一億総中流社会・子供の総高学歴化(大学進学者が多数派)の幻想』の後で、『貧しさの平等度・コミュニティの互助意識・現状に対する満足度』が下がったためであり、平均賃金が下落したり雇用形態の擬制身分化が進んだにも関わらず(大半の人が以前よりも収入を増やしにくくなったにも関わらず)、『人並みの生活水準・子育ての水準・配偶者の水準・幸福実感のハードル』が競争的に上がったからである。

集落・村落のみんなが同じように貧しくて似たような仕事をしていて、同程度の収入を貰っていた時代であれば『コミュニティの助け合いの精神(現物経済的なモノの貸し借り・困った時はお互い様)』が働きやすく、貧乏と孤独と惨めさと子供への申し訳なさがセットになって人間を苦しめることはなかった。

現代はそもそも集落・村落のような大家族的な地縁血縁の持続的コミュニティの一部として生きている個人がほとんどいなくなっていて(そういった人間関係を選り好みできない大勢での集団生活、プライバシーのあまりない生活を嫌がる人ばかりになっていて)、『互助・平等の助け合い,困った時はお互い様(困った時にはできるだけのことはするので何でも相談してください)』よりも『比較競争の優劣・貧しくてつらいのは自己責任(困った時には迷惑をかけないようにフェイドアウトしてください私たちも自分のことで精一杯なんです)』に影響されやすくなっている。

個人の幸福追求と他者との比較競争によって『優劣コンプレックス・自分と他人との間の高い壁の意識化』が起こりやすくなったため、貧しくてもなんとかなると思って子供を多く生む人は著しく減っていて、将来予測のシミュレーションができないほどに感情的・素朴な人の数も減っている。

資本主義・市場原理によって富の蓄積と偏在が進み、雇用形態格差によって正規雇用と非正規雇用の人が生きている世界の違いも大きくなったことで(今でも大企業・公務員の正規雇用の出産率はそれほど低くなく、上場企業・安定企業では二~三人以上の子供がいる世帯も多い)、貧困の連鎖(お金持ち・有力者の子が履ける下駄の高さ)といった階層固定化を庶民でも意識しやすくなり、『協働・連帯・互助』といったコミュニティ帰属による緩やかなセーフティネット(他者との相互的な関心・協力・援助など)に期待することは現実的にも難しい。

個人単位か家族単位での競争原理・自己責任が強調されやすくなり、『普通・人並みとされる基準』が何事につけても高くなって進学・資格・就職・結婚・良い環境などの要所要所で大きなお金がかかるようになったこと、相対的貧困(あるいは三世代以上かかった階層分化)が余計に劣等感や惨めさ、困難さを刺激しやすくなったことが、少子化トレンドに拍車を掛けている。

経済が成熟して成長しなくなったことやキャリア蓄積を問う官僚主義的な社会運営が浸透したことも人口増加を難しくしている要因だが、かつての社会にあった豊かではない人たちの『同胞意識・平等意識・相互扶助』などのコミュニティ(地縁血縁職縁)に依拠した支え合いや心の寄る辺がなくなってきたこと、大衆が個人主義化してウェットで持続的なコミュニティ(選り好みしない同じ境遇にある他者との寄り合い)を嫌い始めたことも広義の少子化トレンドの原因だろう。

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