中高生の自殺報道が目立つが、いじめでも暴力や金品要求のない『仲間はずれ・軽視無視のタイプ』は対処しにくい。当てつけ・報復の自殺は効果は薄く、気の合わない相手との関係も持続するものではない。
小学生くらいまでなら『みんなと仲良くの指導』もできて、先生が生徒同士の友人関係にも干渉しやすいが、高校生の年代までなると『?さんを仲間はずれにしないように・?さんも誘って仲良くしてあげて』といった類の指導はやりにくい。生徒同士の自発的な友人関係の好き嫌いを挙げられると強く介入しづらい。
殴ったり蹴ったりの暴力、馬鹿にしたり侮辱したりの悪口、金品を強請る恐喝、命令を聞かせる使い走りの強要などがあれば、いじめの判定はしやすいが、『最低限の事務的連絡だけして余計な口を聞かない・笑顔を見せずすぐに立ち去る』などを嫌悪・軽視の現れとはいえてもいじめと断定・立証できるかは難しい可能性がある。
クラスや職場など『擬似的共同体のメンバー』に対し、どのようなコミュニケーションや付き合い方が求められるかに一定の暗黙の了解はあるが、『全メンバーに平等な好意・関心・会話をする義務』まではなく、『今まで仲良しだったのに急に仲間はずれ・無視される事態』をどういじめ問題として対応し調整していけるか。
学校であれば極端な距離感の広げ方や相手の存在を軽視する対応(LINEのグループから外したり返信しない)は『いじめ』になり得るが、『求められれば答えなければならない』は学校以外ではそれほど自明なルールではなく、大人の世界でも『合わないと感じ始めた相手を外す人』はいるがそれをいじめとは通常言わないだろう。
仲間はずれやまともに相手にしない(存在を軽視無視する)は、確かに本人にとっては非常につらくて耐えがたい『いじめ』だが、友人でも恋愛・結婚関係でも『相手が自分に対しどれくらい親密に好意的に接するか』の決定権は自分ではなく相手にある面もある。求められればどこまで答えなければならないかの問題は意外に深い。
意図的に『相手を傷つける目的』を持って仲間はずれにしたり軽視無視したりしているのか、相手を傷つけたいわけではないが『その人とどうしても合わなくて一緒にいると苦痛・不快だから避けている』のかが一つの基準にはなるが、学校の閉鎖社会では『少数の友人グループへの精神的依存』が強まりやすく仲間はずれは応える。