異性として好きなほう、心が魅了されるほうを選ぶ発想を続けるなら、結婚や家族はどこかで破綻しやすい。何番目に好きな相手かより、決めた相手と長期のパートナーシップを結び、現実生活に責任を持ち裏切らないというある種の決断・覚悟になる。
何番目かはあまり重要ではなく、人生のパートナーとした場合、中長期的に望ましいと思える相手。結婚生活は現実生活の積み重ねであって、今の気持ちや考えが、未来永劫なんてことはまず、あり得ない。
異性として1番目の魅力を結婚相手がずっと持ち続けられるかといえば、残念ながら大半の人は本心では『ノー』になるが、実際に今の相手を捨て、別の相手に乗り換える人は今も少ない。それは異性としての魅力云々を超えた『自分の人生の意味・価値を支えてくれた存在と時間』の重みが唯一性・情緒的依存を形成しやすいから。
端的には人は年を取る、年を取るほど人生の一回性や有限性(不可逆性)の重みを感じる。性的魅力やドキドキする魅了がどうであれ『長期間にわたって自分を理解したり支えてくれた相手』を性・知覚の魅力だけの比較競争とは別枠におき特別扱いする。巻き戻せない時間軸の感情・記憶・人生の共有は、新しい人と代替できない。
確かに力ある男にとっては、若くて美しい女性(性・知覚の快楽刺激)はいつの時代も次から次へ出て『時々の欲望対象の女性』の順位は入れ替わるかもしれないが、仮に捕まえられても『生きてきた時代・世界の違い』は、究極に『分かり合えない寂しさ・虚しさ(力失えば去る・年取れば置いていかれる)』と背中合わせなのだ。
結婚が異性として好きな人とするものになった歴史は浅い、旧上流階級では婚姻(家柄・生活の互助)と恋愛・妾(性的に好きな異性と楽しむ)は区別されたりもしたが、類人猿から進化し一夫多妻の時代もある人類は、性的・動物的には『一人の相手』で十分満足しきれない貪欲も多少あるが、文明的・倫理的には自制すべきだ。
日々に足るを知り、相手との人生の共有や長年の支えに感謝し、外ばかりに目線を向けず、刺激や快楽に溺れずという、ある種、経済的・生活的・周辺的な環境条件が支えてくれる『道徳的な生き方の習慣化』があるかないかが、その人の結婚生活や異性関係がどれくらい荒れるかを背後で規定する。一回限りの人生をどう生きるか。