エミール・デュルケームの「自殺論」と自我・欲望の肥大によるアノミー的自殺:近代人はなぜ豊かになって自殺率を高めたのか?

21世紀においても、自殺問題は純粋に個人的・心理的な問題(個人の性格・精神力・価値観の問題)と捉えられやすいのだが、この自殺問題の「個人還元的なスキーマ」を転換させた19世紀の社会学者にエミール・デュルケーム(1858~1917)がいる。

現代日本では年間自殺者数が3万人を大きく割り込んできたとはいえ、先日も小学6年生の女児が飛び降り自殺するなど、青少年と中年者・高齢者を中心とした自殺問題は現在進行形の問題として注目を集める。

しかし、すでに19世紀の近代初期のヨーロッパにおいて、自分で自分の生命を意図的に絶つ「自殺」は大きな社会問題として認知されており、近代以前の自殺発生率と比較して有意かつ劇的に自殺率が高まり、その原因や理由を求めて心理学者を中心とした学者があれこれ議論を始めていたのだった。

デュルケームの社会学者としての基本的価値観は、個人の自由意思や意思決定を軽視(無視)した「社会決定論」に近い。

デュルケームは個人の行動・思考は個人の外部にある全体社会に共有されている行為規範・価値規範の様式としての「社会的事実」に強く拘束されているという前提を置いた。

つまり、自殺もまた近代の社会的事実に拘束されたある種の統計的・必然的な現象に過ぎないというドライな観察者の視点であり、その傍証の一つとしてある国家・地域の年間自殺者数は概ねどの年も近似していること(変化するにしても緩やかな変化しか示さないこと)を上げた。

ある年の自殺者数が極端に少なく、ある年の自殺者数が極端に多いというバラツキがほとんど無いことが、自殺が社会的事実に拘束された統計的現象の表れであるとする。

純粋に個人の自由意思や性格傾向だけで人が自殺を選んでいるのであれば、もっと年度によって自殺者数がバラバラになってもいいはずだというのである。例えば、日本の自殺者数が去年は3万人だったのに、今年は激減して1000人だったというような極端なバラツキがほぼ絶対にないことが、デュルケームのいう社会的事実によって拘束された自殺現象の意味である。

社会的事実というのは、社会構成員間において無意識に共有されている「全体社会における一般的な行動・思考・価値判断のパターン」であり、日本の歴史上の社会的事実の典型例として「切腹(名誉の自殺)」や「特攻隊志願」を考えると分かりやすい。

これらは純粋に個人の心理や意思決定によって選ばれた個人の行動ではなく、当時の社会において大多数に共有されていた「一定条件に当てはまる名誉を失った個人は生きていてはいけないという暗黙の社会的事実」や「国家・天皇・民族のために生命を潔く捨てて特攻することは非常に名誉で尊いことで親孝行・故郷の誉にもなるという社会的事実」によって半ば必然的かつ統計的に起こった現象とも言える。

個人の自由意思ではほとんど拒否できない、どうしても逃げられない「社会的事実としての拘束力・暗黙の監視」はかなり強いのである。

現代における「ブラック企業での勤勉な勤務」や「ハードワークの過労死」というのも、純粋に個人の自由意思や行動選択に基づく行動とは言い切れない。

これらも社会のかなりの部分で共有されている「どんな理由があろうと働かない人間はダメな人間である・誰だって理不尽な労働を我慢して頑張っている(それができない人間は社会不適合である)・今の会社をやめたってどこに行っても同じだぞ(いったん逃げ癖がつくと転げ落ちて正規雇用から脱落していわゆる普通の人生を歩めなくなる)」といったその人の生きてきた人生を今までかなり支配してきた社会的事実によって雁字搦めにされていること、実際の選択肢がないことが多いのである。

エミール・デュルケームは「自殺論」で、19世紀のヨーロッパ諸国の自殺率が短期間でほぼ一定値を示した統計資料を参照して、「近代社会は一定の社会的自殺率を持つ(近代以前と比較して社会的自殺率は有意に上昇した)」と仮定して、各社会の特徴によって自殺がどのような社会的事実に基礎づけられているかを分類した。

現代での社会学的理論としての有効性や自殺分析の射程には限界があるが、デュルケームの自殺論の4類型のうち、経済的に豊かな文明社会でそれなりに生きられても他者との差異や現在と過去の落差、欲望の肥大による自暴自棄で自殺するという「アノミー的自殺」は現代でも一定以上の説得力を持っている。

現代人の自殺者の多くは、絶対的貧困や決定的無能(無力と無知の極限)にまでは落ち込んでおらず、最低限度の生存をなりふり構わず求めればそれは叶えられることが多い。

デュルケームも近代以前であれば、自殺など考えもしなかったであろうそれなりの生活水準にある人たちがあっけなく自殺していくのはなぜなのだろうかという疑問が初めにあり、個人の貧乏・無知・孤独・病気・無力そのものが決定的な自殺要因になるのではなく(途上国の絶対的貧困者は概ね自殺しない)、「貧乏・無知・孤独・病気・無力があると生きていけない恥(無意味・自我崩壊)とするその人にとっての今までの生を規定してきた社会的事実がその人の生存を断念させる」という仮定に行き着いた。

デュルケームは近代人の自殺要因の一つを「孤独・疎外(近代の個人主義の気楽さの裏)」に見たのは19世紀の学者としては慧眼であり、自殺統計を見て「未婚者・既婚者・子供のない夫婦・子供のいる夫婦の自殺率の差異」や「平時に対する戦時の自殺率の低さ」の原因を、個人が帰属する社会集団の統合力の強弱に求めている。

戦時に高揚する狂信的な愛国主義は、物理的な戦死のリスクと引き換えに、近代人の孤独や疎外を癒す可能性もあり、擬似的戦争であるスポーツの観戦やファンの群集心理も同じように孤独回避の「社会的統合の強化(みんなと同じ集団に属する一体感)」と関係している。芸能人のファンになったり大勢でライブ・イベントに参加したりしたい心理も、社会的統合の強化によって生命エネルギーを高めると解釈するわけである。

デュルケームは古典的な自殺の原因として、「自己本位的自殺」と「集団本位的自殺」を上げた。

自己本位的自殺……近代の個人主義・自由主義によって、個人が社会に無条件で統合されなくなり、個人間の能力・魅力の自由競争が本格化したことで、孤独感・焦燥感・虚無感に襲われた孤立した個人(社会・他者との結合が切れた個人)が自殺するというもの。

集団本位的自殺……前近代社会や軍隊組織に多かった社会全体から伝統的・道徳的に義務として強制される自殺。「献身・自己犠牲」が義務化されたり常識化されたりした社会では、全体社会が絶対的な個人の服従を求めるだけではなく、個人同士も相互監視して全体社会に自発的に献身して自己犠牲を払うようになるので、一定条件下では個人は統計的・強制的な義務と名誉の自殺(殉死)に追い込まれる。

例えば、江戸期以前の名誉失墜・違反行為における切腹、イスラム過激派の自爆テロ、イスラム原理主義の婚前交渉した女性への自殺強要(親の決めた婚姻への不服従に対する自殺強要・殺害)、戦時における戦死率の高い前線への士官候補の志願、沖縄戦における沖縄県民に対する自殺強要(戦陣訓・捕虜になる投降は非国民)なども、集団本位的自殺である。

あまり重要視されず具体的事例も上げられなかった自殺類型に「宿命的自殺」もあるが、デュルケームの自殺論でもっとも注目すべきは「アノミー的自殺」だろう。

宿命的自殺……集団・社会の共通規範による強制的な拘束力によって、個人の欲求を抑圧されて無理やりに断念させられることで起こる自殺類型。

前近代的な身分制度に違背する越権行為と見なされる出世・成功などの断念、身分違いの恋愛が成就できない苦悩や心中による自殺、世間体・慣習法から大きく逸脱する個人の抜きん出た野心を大勢から叩き潰されての自殺などを想定することが可能かもしれない。

アノミー的自殺でいうアノミーとは「無規範・社会秩序の混乱=中心的権威的な価値観の喪失」と訳すことが多いが、社会共通の強制力のある規制や規則、身分、常識が緩んだ状態において個人が自由を持て余して(形式的に自由・平等でも欲しいものが得られなくて自尊心が傷つき)、自我・欲望を無限に肥大させて自殺するという近代特有の自殺類型である。

最低限度の文化的生存だけであれば十分に可能な豊かになった近代人が、「絶対的貧困・飢え」を待たずして自殺しやすい原因の一つと解釈できる。

近代人、現代人は「分相応に妥協して生きること・大きな格差や不条理な現実を受忍して生きること」がかなり苦手になっており、「形式的な自由・平等」と「実質的な自由平等」のギャップ、あるいは「学生時代までの気楽さ・自由さ」と「社会人になってからの苦労・拘束」のギャップに自我・自尊心を切り裂かれて、それなりに生きられるにも関わらず自殺してしまうリスクが前近代社会に比べて有意に高くなっているのである。

経済的な不況時だけではなく好況時にも自殺は起こるが、それもアノミーな近代社会における「自我・欲望の際限なき肥大」に呑み込まれてしまいやすいからで、「好況時における格差・貧困・孤立」はより近代人の自我を惨めなものにさせ(上ばかりを見させて足るを知る心を失わせ)、生きるエネルギーを枯渇させる自分だけが置いていかれているという社会的事実の幻影として自我を圧迫する影響力を持つ。

デュルケームは近代社会に後続する消費文明社会へと接続するような形で、アノミーを「分不相応あるいは非現実的な欲望・幻想を煽り立てる近代社会の病理」として考察している。

消費文明社会の市場原理と競争社会に呑み込まれ、アノミー的自殺に誘惑される近代人とは「今・ここにないものばかりを欲望して勝手に苦しんでいる主体(一つの欲望を充足すればまた新たな別の欲望が現れて逃げ水のように遠ざかる)」であり、「形式的な自由・平等と実質的な不自由・不平等のギャップに怨嗟している無力な主体」なのである。

デュルケームは、自殺は自殺者の個人的気質・性格に基づく自由な選択の結果などではなく、それぞれの社会構造が無意識的に成員に共有することを強制している「道徳的・価値判断的な構造(近現代であれば無規範・欲望肥大のアノミー)」に基づく社会的事実の統計的な表れであると定義する。

「階級の上下を問わず、欲望が刺激されているが、それは最終的に落ち着くべきところを知らない。欲望の目指している目標は、およそ到達し得るすべての目標のはるか彼方にあるので、何をもってしても、欲望を和らげることはできないであろう。その熱っぽい想像力が可能であると想定しているものに比べれば、現実に存在するものなどは色褪せて見える。こうして、人は現実から離脱するのであるが、さて、その可能なものが現実化すると、今度はそれからも離脱してしまう。人は、目新しいもの、未知の快楽、未知の感覚をひたすら追い求めるが、それらをひとたび味わえば、快感もたちどころにして失せてしまう。そうなると、少々の逆境に突然襲われても、それに耐えることができないのだ(アノミー的自殺に誘惑されやすい近代人の心理の強欲・夢想の脆弱さでもある)」

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