“なぜ人を殺してはいけないのか?”の問いから人間社会の倫理と法、個人の心理を考える。

生態系の食物連鎖や同種間の生存闘争がある自然界では、『他の動物を殺してはいけない』という法律や倫理観はないが、動物も基本的には同じ種の他の個体を無意味に殺すということはしない。

動物も群れを形成したり、他の個体と協力することによって『生存適応度(天敵から殺されずに済む確率)』を高めているが、人間(ヒト)という種は特に、他者と協力して生産・防衛・コミュニケーションをする『社会形成(共同体構築)のメリット』が大きい種である。

誰も答えられない?「なぜ人を殺してはいけないのか」 その理由を弁護士7人に聞いてみました

『社会集団を形成しない単独のヒト』は他の動物と比較しても余りに無力であり、『仲間同士の信頼・協力・互酬性』を上手く築けなかった集団は歴史的に滅ぼされてきたと考えられるが、仲間同士の信頼・協力の基盤にあるのが『人(仲間)を殺してはいけないという殺人禁忌』であった。

厳密には、内戦・内輪揉め・身分差別(無礼討ち)の絶えなかった近代以前の時代には、『人を殺してはいけない』は『仲間(ウチの人間)を殺してはいけない』に近い規範であり、現代の人権思想ほど『すべての人間を絶対に殺してはいけないという普遍的な禁忌性』は持っていなかった。

人を殺してはいけないという殺人禁忌は、『罪悪感・共感性・想像力が生み出す倫理観』と『誰もが殺されたくないから、それぞれが他者を殺さないと約束する社会秩序(社会契約)』によって支えられている。

仮に、その社会秩序を破って人を殺せば、法律に定められた刑罰(処罰)を受けることになるが、これは『社会的・倫理的な価値観』にのっとった処罰である。『社会的・倫理的な観点(第三者の視点も交えた中立的・客観的な判断)』からは、個人レベルの殺人は正当化されることは決してない。

だが、記事にある『刑罰を受ける覚悟があれば殺人をしても良いのか』の問いは、屁理屈じみた問いではあるが、『個人的な心情・主観的な正義』としては自己正当化が図られることも有り得る。

公権力・社会・他人の目線からは、個人レベルの殺人はいかなる理由があれど、普遍的な悪としての非難・処罰を免れないが、『本気で殺人を決行する人』を実際の局面では事前に止めることはできない。止めることができるのであれば、現実の殺人事件は0件になるはずだが、殺人が悪と知っていても様々な理由・心理・利害・信念によって殺人に手を染めてしまう人は必ず現れるからである。

しかし、『情状酌量の余地の大きな殺人』や『社会正義の理屈に共感されやすい殺人』というものも確かに存在するのであり、すべての殺人行為が一律的かつ均質的に倫理的な非難や人格的な否定に晒されるわけではない。

相手から長年にわたる虐待や暴行、いじめ、屈辱を受け続けていた人が、このままだと殺される(これ以上の苦痛や絶望に耐え切れない)と感じて、過剰防衛や不意討ちの一撃で相手を殺害したような事件であれば、利己的な目的の殺人よりも倫理的な非難はされにくく、殺された側が自業自得だと思う人も相当な割合で出てくるはずである。

少し前に強姦しようとして草むらに女性を引きずり込み、ナイフを取り出して脅した加害者が、逆にナイフを奪い取られて太ももを刺され大量出血で死亡する事件もあったが、こういった事件は正当防衛であると同時に、先に犯罪をしようとした殺された側が自業自得だと思う人は多いだろう。

殺人は一般的に禁じられていて、人を殺せば法的な処罰はおよそ免れないが、『先に追い詰められていた状況があるのでやむを得ないとか、被害者の自業自得だと思えるような相応の理由』があれば、情状酌量で減刑されたり世間(他者)の道徳的な非難が殆どなくなったりする。

いかなる理由があっても殺人は絶対に許されないという原則主義に立つ人もいるが、正当防衛的な殺人(限界を越えた虐待・拷問・監禁・人格否定などに対する復讐的な殺人)をせざるを得なくなったという状況に対して、逆に同情・共感が寄せられることも少なくないはずである。

それでも『個人レベルの殺人』は、倫理的な非難と法律的な処罰を完全に回避することはできないし、どんな理由があっても、殺されても仕方ないような最低の人間(生きていれば犯罪や虐待、暴力、迷惑行為を繰り返し続けるような性根が腐った人間)であっても、大半の人は殺人をすれば良心の痛みや罪悪感、トラウマティックな記憶・感覚に苦しめられることになるだろう。

殺人をしてはいけないの例外としては、『国家レベルの殺人(国家権力がお墨付きを与える殺人)』としての『戦争・死刑』を上げることができるだろう。

『戦争』は限定条件のある殺人禁忌(人権思想ほど普遍的ではない人命尊重のレベル)への退行であり、『人を殺してはいけない』を『仲間(自国民)を殺してはいけない』に置き換えて、『国家(仲間集団)の敵であれば殺しても良い』という例外的な殺害の容認をするものである。

『死刑』は殺人をはじめとする重大犯罪を犯した被告を、国家が『社会防衛・応報原理』で処刑するものであり、戦争と同じく『国家(仲間集団)の敵であれば殺しても良い』という例外的な殺害の許可をするものである。

個人ではどんな仕打ちや被害を受けようとも、『殺されても仕方がないような最低・最悪の人間』を認定して殺すことは許されないが、死刑のある国家(法権力)であれば、殺されても仕方がないだけの犯罪を犯した極悪人(死刑囚)を認定して生存権を停止させることができる。

『なぜ人を殺してはいけないのか?』という問いは、自分だけが法律によって殺人を許可されたとしても大多数の人は『敢えて人を殺したいとは思わない(人を殺してまで何らかの目的を達成したり利益を得たいとは思わない)』という意味で、ナンセンスというか理由を突き詰める必要がない問いである。

単純に、『自分が殺されたくないから私も殺さない・別に他人を殺したいと思っていない(人を殺したって生理的に気持ち悪いだけであり、後味が悪くて罪悪感に苦しみそうだから。殺そうと思うほどの怨恨や憎悪の感情が続かないし、そこまで嫌いで憎ければ絶縁したほうが良いから)』という理由で十分だからである。

殺人禁忌の基盤は、『自分が殺されたくないから自分も殺さない』という相互的な契約性が、ほぼ普遍的な倫理やニーズとして他者と共有可能だからであり、大多数の人間が『殺されることを心配・警戒しなくても良い平穏な社会秩序』を希望して、そのための社会契約(殺そうと思えば殺せるという意味での殺す権利を相互に放棄する社会契約)に同意することは必然の帰結だからである。

社会共同体を構成する大多数の人は、『自分が殺されるかもしれないリスク』があれば『他者を殺せる自然権(他者を制圧・殺害してでも目的を達成する自力救済の権限)』を自ら放棄してその自然権を公権力に委譲することになるが、これがトマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約の原型的な動機(万人闘争からの離脱の契機)でもある。

なぜ殺人をしてはいけないのかの問いが切実なものとして浮かんでくる人は、『人を殺したくて堪らない人・人を殺してでも何らかの利益を得たい人・法律が禁じていなければ人を殺したい人・どうやっても逃げられない相手から苦しめられ続けている人(相手を殺さなければその悲惨な状況から抜け出せないと思い込んでいる人)』だけだからである。

すべての人が法律によって殺人を許可されたり、武器の携行が認められた場合には、『自分が殺されるかもしれない不安感・不信感』が高まるので、自己防衛的な殺人(やられそうだから先にやってしまったというような殺人)は増えるかもしれないが。

しかし、親(養育者)からの愛情を受けて成長したり、友人知人との楽しいコミュニケーションや交友関係を経験したり、他者との多様な人間関係を築いて好意・親切・援助を受けたりすることによって、大多数の人が『他者の生命・人生・人間関係に対する共感性や想像力』を培っていくことになる。

その結果、自分以外の他者にもかけがえのない人生や人間関係があることを自然に理解して、軽々に他人を傷つけたり殺したりすることは出来なくなるものだが、『なぜ人を殺してはいけないのか?なぜ人から奪い取ってはいけないのか?』などを真剣に考えなければならない倫理的な葛藤がある人は、それだけ『他者不信・現実認識の希薄化・社会からの疎外感(被害感)』が強いということだろう。

自分を社会の一員という仲間意識から引き離している(自分以外の人間はすべて敵でどうなってもいい)とも言えるが、それが過剰になればサイコパスやソシオパスの人格構造の異常へと発展して、『他人が苦しんで痛みを感じていても、自分は痛くも痒くもないという自閉的な加害性・残酷性・搾取性』に陥ってしまうことになる。