精神疾患の国際的な診断基準であるDSM-5では、過剰に物を集めて溜め込んでいく「溜め込み障害(hoarding disorder)」が新たな疾患として認められたが、膨大な物や記念品に覆われて生きざるを得ないところのある現代人は、基本的に「物を捨てられない性格傾向」を持ちやすい。
年齢を重ねれば重ねるほどに物を捨てづらい傾向は強まりやすいとされるが、現在80代以上の世代になると「戦前戦後の物不足の時代」を経験しているだけに、「まだ使えそうなものを捨てること」に勿体なさあるいは罪悪感のようなものを感じやすいようである。
同じものを大量に買い込んで、できるだけ多くのストックを持つ事が安全という意識を持っている人も多く、食糧不足を懸念して大量の缶詰・保存食を買い置きしたりしているケース(実際には缶詰にも賞味期限・外装の耐用年数の限界はあるのだが)もある。
ホーダー(hoarder)とも呼ばれる溜め込み障害の人は、自分の居住空間がなくなったり生活設備が使えなくなるほどに物を溜め込んで「ゴミ屋敷・汚部屋」のような状態になってしまうので病気のカテゴリーになってしまう。
だが、ホーダーが物を捨てられない理由の一部である「必要な時になって無いと困る・それぞれの物に過去の思い出が篭っている・一度捨てたら二度と手に入らない・お金を出して購入したものはゴミではなく財物である・精神的に孤独で淋しいが多くの物に囲まれていると落ち着く」などは、高齢者が片付けられない、捨てられない理由と重なる部分もある。
現代を生きている若い人たちは、「食べ物があること・物が多くあること」が当たり前なので、逆に「物が余りない家・目に見える所に物が殆ど出ていない部屋」を
おしゃれでモダンな空間として好む傾向がある。最近はかなりの読書家でも電子ブックや本のテキストデータ化を併用することによって、室内にある蔵書のボリュームを減らす傾向があるし、単純に物がありすぎると注意力・集中力が散漫になりやすいし、物が障害物になって掃除をする意欲も起きにくくなる。
「物の整理」は生きているうちから段階的に進めていったほうが良いことは自明だし、高齢になると物を捨てるか捨てないか、その物がいつどんな時に必要なのかの判断も難しくなる。
若い人でも「保管しておけばいつか役に立つかもしれない・また取り出して見たくなるかもしれない・いつかまた読みたくなるかもしれない」という思いから、即座に物を捨てる判断をすることは難しいのだが、大半の人は自分の経験と照らし合わせれば「2年以上くらいの期間にわたって一切手を付けなかった物」は何年経っても使わない読まない物(本)になる可能性が高いのではないだろうか。
しかし、自分が60代くらいの年代になると、「思い切った物の片付け・要らないものを全て捨てること」は、「身辺整理(将来のリアルな有限性・死の近づき)」を思わせる心理的な抵抗によって難しくなるかもしれない。
物に愛着を持って保有し続けること、(実際には取り出さなくても)それをまだ見たり使ったり懐かしんだりするだろうと思えることは、自分の人生がこれからも順調に続いていくことのメタファーである。
毎日使う生活必需品や本当に大切な物以外を思い切って捨てるとなると、「自分の人生のリアルな有限性・物を沢山所有していても無意味になることの予感」を突きつけられるような感覚になってしまうからであり、「雑然とした大量の物」は自分の人生・生活の履歴であると同時に延長の可能性なのである。
高齢になるとぬいぐるみやマスコット、可愛らしい置き物、ゲームセンターで取れるような玩具・人形をコツコツ大量に集めて部屋に並べるような人も多く、「物を減らす」のではなくむしろ「物を増やす」方向に意識が向きやすい。
ほとんど換金価値はない骨董品・芸術品・古美術・絵画(美術館などで買えるレプリカ)・焼き物などを、山のように集めてコレクションしている人も多いが、こういったコレクションも生前に手放させたり売却・処分したりすることは極めて困難だ。
ただこういった物はその大部分をまとめて売ったり捨てたりすることになるとしても、本人と生前親しかった親族や友人知人が欲しいものがあれば「お気に入りの一品・本人が好きだったりよく楽しそうに話したりしていた物」を分け合うような偲び方もできる。
現代では無駄な物を捨てて物への執着を捨てる「断捨離」といった生活術や思想も普及しているが、若いうちは「断捨離のシンプルライフ・身の回りに物をできるだけ置かない生活」を好んで実践できていても、年齢を重ねるにつれて徹底的なシンプルライフに対して味気なさや物足りなさ(好みの物への愛着・収集による癒しや満足)を感じる可能性はある。
親(祖父母)の「捨てられない物・片付けられない物」を片付けていくには、本人が存命であれば「本人の片付けなければいけないという意思・希望」がなければやはり難しいし、「要らないものの選別」が進まないので整理をやっても無駄になりやすい。
親しく付き合っている子供・孫がいれば、その世代までは「本人の人生や生活の履歴」となる写真・文書・学校のアルバムなどを欲しいと思う人は要るかもしれないが、そういった人がいなければ、純粋に「自分や夫婦だけの記憶・思い出に関連するもの」は引き取り手はいないということになるだろう。
必要なものと不要なものの分別は、「今実際に使っているものか否か・ここ数年間で一度でも取り出して見たこと(使ったこと)があるか否か・思い出の品だとしても同じようなものが他にもないか・物自体に換金性や客観的価値があるか否か」でざっくりと思い切って分けていくしかない。
嵩張りやすい壊れた家電製品や使わなくなった家具、何年も前に買ってずっと着ていない衣料品などは、倉庫・押入れなどにしまい込まずに早め早めに捨てていく事も大切である。衣服は若い人でもせっかく買ったのだからと、あまり着ない服なのにずっと保管する人は多いが、これも何年も着ることなく次の新しい服を買っているのであれば、そこから何回も着る気に入った服になることはもう無いだろう。
「捨ててしまった後になって後悔するのではないか」というのは、実際にはそれほど心配することがないものだと思うが、大量の物を思い切って捨ててしまった後には「具体的な個別の物の情報・記憶」は意外に曖昧なものでもある。
「本当に絶対に捨てたくない大切なもの」を、「心理的な思い出(情緒・懐かしさ)の観点」と「経済的な価値(換金性・プレミア)の観点」から、10個ずつなら10個ずつと限られた数だけセレクトしておき、もっと増やしたくなったらその中のどれかを諦めて売るなどして、新たな一品を加えるべきだろう。
思い出の品・写真を100個も200個も保存しておいたところで、実際にそれを取り出して改めて見直して懐かしむ機会はないものだが、保存しておくならしておくで「何がどこに保存してあるか(個別のダンボール箱にある程度具体的な物の種類・名称を書いておく・自分がいなくなったら捨てても構わない種類のものであるかのメモを貼っておく)」を家族・親族にも分かりやすい形で整理しておいたほうが良いかもしれない。