日本社会の非冒険的カルチャーと官僚主義・長期雇用(生涯安泰を理想とする予定調和の静態的システム)

本多勝一(ほんだかついち)の『日本人の冒険と「創造的な登山」』は1970年代に書かれたものだが、日本社会あるいはマジョリティの日本人がなぜ『冒険的・探検的な試み』を嫌って恐れるのかを冒頭で検証していて興味深い。

そして、この死ぬかもしれない人間の身体的限界(エクスペディション)に迫るような冒険・探検を『無謀・迷惑かつ無意味なチャレンジ』として嫌う基本的な性向は、現代の日本にまで連続していると見て概ね間違いはない。

今でも『山の遭難・海の事故』などに対して様々な角度から罵倒や嘲笑が投げかけられるのは常であるし、『初めから危険な場所に行かなければいいのに・おとなしく普通に暮らしていればいいのに』という考え方は一般的なものでもある。

最初に取り上げられるのは、1962年に単独で小型ヨットで太平洋横断(アメリカ渡航)を果たした堀江謙一青年だが、日本のメディアや文化人の論評では堀江の扱いは『太平洋横断の超人的偉業を成し遂げた』ではなく『両国政府の許可を得ていない密入国で犯罪ではないか(冒険を評価するよりも違法行為や無謀な挑戦を戒めるべき・アメリカからも非難されて逮捕されるのではないか)』というものであった。

だが、アメリカは不法入国した堀江謙一を逮捕するどころか、勝海舟の咸臨丸によるアメリカ来航以来の日本人による太平洋横断の快挙として賞賛、堀江を『名誉市民』として認定して好意的なインタビューが行われた。アメリカのマスメディアや行政の反応を見た日本の政府やマスメディアの対応は180度転換して、『人力による太平洋横断の功績』を評価するようになったが、日本社会だけでは堀江謙一が評価されることはなかったと思われる。

冒険を嫌うインテリの代表として江藤淳が挙げられ、江藤は太平洋横断の冒険とは関係のない『堀江の複雑な家庭事情・堅実ではない人生設計・周囲の同級生からの仕事生活の遅れ』などをねちねちと責めるばかりで、危険で無意味な冒険などせずにみんなと席を並べて勉強して就職すべきだというような日本人的な価値観を押し付ける正論に走る。

インタビューというよりはほとんど説教であり、自分が肉体・精神の限界にチャレンジする冒険を無意味(一銭にもならない)と思っているから無意味なのだ(生活の足しにならないのだ)という同語反復の態である。

だが江藤が敬愛する小林秀雄は、自身が百名山の深田久弥(ふかだきゅうや)と山行を共にした登山家でもあり、江藤の論立てに反対して堀江謙一の『太平洋ひとりぼっち』を今日の世代を代表する文学として高く評価した。江藤は文壇で『小林秀雄論』の随筆で評価されていたが、『小林秀雄の人間性・世界観』を捉え損なっていた事を露見してしまった。

日本政府も基本は冒険嫌いであり、1956年の南極探検プロジェクトにおいても『南極探検・南極遠征』という用語は認められず、『南極観測』という自然環境の猛威によるリスクがないように見せかける、ただ決まった航路と確立された陸路で現地にいって観察してくるだけのような名前にしないと予算が可決されなかったという。

日本の非冒険的カルチャーは、『個人主義否定の横並び文化(みんながしようとしない奇抜・危険な目立つことをするな)』と『想定外のミスやリスクを許容しない減点主義の官僚主義(予定調和のレールに乗ってみんなが役割分担と生涯安泰を得ることが最大の価値)』に由来しているが、日本における冒険とは『無謀ではない冒険(危険がない冒険)』という語義矛盾に陥らざるを得ない皮肉がある。

政治学者の丸山真男の言葉によれば、日本の官僚主義及び法治主義、民間の長期雇用(一つの組織への長期的帰属)は『閉鎖的=静態的な論理のシステム』であり、ルール(原理原則)や理論・計算によっても十分な予測ができない事態、『やってみなければ分からないという決断の契機・現実の不確定性に対する賭け』を異常なまでに嫌うのだという。

冒険・探検と日本社会の構造論から始まる本書だが、そこには『トライアル&エラーという保障がない冒険の本質』を嫌って恐れる心理があり、『予定調和の官僚主義・長期雇用とそこから外れるエラーが出ることの恐怖(エラーや逸脱を恐れないチャレンジングな日本人、カネにならないことをする人に対する差別・嘲笑)』が日本人の心底に染み込んでいて、冒険はおろか投資や挑戦、方向転換にさえも萎縮せざるを得ない不幸がある。

イギリスでエベレスト初登頂を果たしたヒラリーはナイト(貴族)の称号を授与されたが、日本でマナスル初登頂を果たした今西寿雄にはただ文部省の感謝状が贈られただけ公式の名誉は何ら与えられなかった。

著者の本多勝一は日本の勲章・栄典に対して、日本政府は既に評価が確立して動きようがなくなった、あるいは高齢化して新たな変化が生じなくなった人たち(もしくは死んだ人)に与えられることが殆どだとシニカルな批評をする。

農村文化の同調圧力をベースに持つ非冒険的な日本社会では特に、『遊戯的な学術・冒険・興行(技能)』に対して、芸能民が賤民視された歴史も踏まえ評価は伝統的に低い。

西欧社会の歴史的な冒険精神の源泉の一つは、地の果てまで神の国や植民地(奴隷)を求めていく『キリスト教の布教・軍事的な侵略』にあるとも言えるが、日本文化の特殊性は『人と同じようにおとなしく適応しない冒険者・挑戦者に対する否定的な眼差し』にあるというのは戦前戦後を通してかなりの一貫性を持つのだろう。

現現在の日本社会の混乱は『静態的(スタティック)な予定調和・現状維持のシステム』が通用しなくなってきたこと、今までと同じように無難にやっていれば保障される時代ではなくなってきたこと(みんなと同じように頑張れば報われるのシステマティックな適応に想定外のエラーや不利益がでてきたこと)にあるが、またこの本の続きの話題やテーマについてもぼちぼちと分析や論評を加えていきたいと思います。