総合評価 89点/100点
人類から老後の災厄を取り除くはずだったアルツハイマー治療の新薬は、チンパンジーのシーザーを首領とする類人猿の集団に『ヒトに迫る知能・言語』を与えただけではなく、人類の生存を脅かすパンデミックのトリガーとなる『猿インフルエンザの突然変異』を引き起こした。
前作『猿の惑星 創世記』のエンディングでは、育ての親であるウィル・ロッドマン博士(ジェームズ・フランコ)から『家に帰ろう』と呼びかけられたシーザーが、森の中でリーダーの自分を頼りにしているサルの大集団を振り返って『シーザーのうち、ここ』と答え、ヒトに等しい自我がシーザーに確立した所で終わった。
ウィル(ウィルの父親)やキャロラインに大切に育てられて『ヒトの優しさ・思いやり』を知るシーザーだったが、ウィルの父親を助けようとして人間に襲いかかったことで、劣悪な保護施設に閉じ込められて職員からの虐待を受け、『自分はウィルと同じ人間ではない』という自意識を持つことになった。
更に檻から逃げ出した類人猿を捕獲・殺戮しようとする人間の敵意にも晒され、『ヒトの恐ろしさ』も知ったシーザーは、人間界との境界線を明確にして、自然公園の奥深い森に閉じこもって暮らすという棲み分けの決断をした。
あれから10年の歳月を経て、森に足を踏み入れる人間の影がパタリと消え、森から見える街の風景は次第に荒廃してきた。伝え聞く情報によるとヒトは猿インフルの大流行と社会的パニック(殺し合い)によって大幅に人口が減少したか、あるいは絶滅したのではないかという……シーザーはそれでも安易に境界線を超えることをせず、ヒトの住む街には近づくべきではない(接触しない限り争いは起こらない)という判断を維持した。
ヒトの旧石器時代に相当する文化・道具・武器を発達させたシーザーたちは、森の中で家族や仲間と共に協力し合いながら原始的生活を送っている。シーザーが仲間と助け合う共同体を維持するために設定した黄金則は、『サルはサルを殺してはならない(サルはサルを殺さない)』という殺害禁忌であり、ボスザルであるシーザーの実力と権威によって今までその禁忌に違反したサルはいなかった。
シーザーは粗暴ではないが腕力・知性において群れで最強の能力を誇っている。何より『類人猿(仲間)の檻からの解放』という歴史的偉業によって、シーザーと肩を並べようとする競合的な個体は皆無であった。シーザーは妻のコーネリア、息子のブルーアイズ、生まれたばかりの次男という家族を持つようになっている。
シーザーは『道徳性・権威性・リーダーシップ』によって群れにとって最善の選択をし続け、他のサルたちは心からシーザーを敬服して、その指導力に全幅の信頼を置いている。遺伝子操作の生体実験を受けたことで、人間を激しく憎悪しているコバでさえ、シーザーに生命を助けてもらった恩義があり、考え方の違いを超えて絶対服従の姿勢を見せていた……人間との戦争を巡ってシーザーとの対立が決定的に深まるまでは。
平和で穏やかな類人猿の共同体の生活が続くかに見えた時、不意に人間が森の中に足を踏み入れてきた。槍を持つ類人猿と遭遇した人間が驚いて銃を発砲し、一頭のチンパンジーが負傷するが、仲間をやられて『人を殺せ』と興奮するサルの集団を一喝したシーザーは、『二度と森に立ち入るな』と人に命令して立ち去らせた。シーザーはサルが人間を殺せば戦争は不可避であり、銃器を持つ人間が多くいれば、自分たちの力では勝てない事を知っていたからである。
しかし、人間も興味本位やレジャーで山・森に入ってきたわけではなく、『人口激減(技術者・専門家の消滅)・社会インフラの機能不全』に晒されて、サンフランシスコの『文明社会(電気文明)の終焉の危機』に迫られてやって来ていた。原子力発電所も火力発電所も運転をストップして、自家発電・バッテリーで何とか最低限の電力需要を凌いできたが、このままでは一ヶ月ももたずに電気を失ってしまう窮地にある。電気の永久的な喪失を察した街の人々の顔から笑顔が消え、不穏な空気が充満しつつあった。
街の指導者・扇動者である元軍人ドレイフュスは、森の中にある旧式のダム(水力発電)を再稼働することで、電気を復旧して電力を維持できると考え、水力発電の技術者を含む調査隊を派遣してきていた。電気が支える文明的な生活基盤を失えば、サンフランシスコ市民がぎりぎりのラインで保ってきた秩序と安定、倫理感も瓦解してしまう恐れがある。
技術者のマルコム(ジェイソン・クラーク)から、山奥にあるダムの水力発電設備を復旧したいという事情を聞いたシーザーは、『ダムの復旧作業』を許して、早期に作業を終わらせるために部下のサルも協力させるとまで約束した。
人間にとって電気が絶対に必要なものであることを知るシーザーは、いくらダムの作業を認めないと拒否して追い返しても、人間が電気を復旧する試みを諦めることはないことを見抜いている。実力で人間の電力の復旧作業を邪魔すれば、電気文明の回復と維持を至上命題とする人間は、遠からず武装した討伐隊を差し向けてサルを全滅させてでも作業に取り掛かる。人間にも生きるか死ぬかの必死さがある。
シーザーは、人間を絶対に信用するな(奴らは嘘をつき裏切る)、少しでも森に入ったら殺害しろと憤慨するナンバー2のコバたちの『人間排斥派・主戦論者』を押さえ込み、『人間との対話の必要性(サルと人間が共存できなければ破滅しかないという現実)』を何とか説得する。
だが、信用して森に入らせたマルコムたち一行の一人が、『森には銃器を持ち込まない』という約束を破って、拳銃を隠し持っていたことが露見し、コバは服従していたはずのシーザーに対して次第に不満・反抗心を滾らせていく。
この銃を持っていることがバレるシーンは非常に象徴的である。マルコムやエリーがシーザーの次男の赤ちゃんザルをまるで『人間の赤ちゃん』のように感じて可愛がっている所で、赤ちゃんザルが銃に近づいていってしまい、(銃が暴発しないように)大声を出して静止することで銃を隠していたことがバレてしまう。
マルコムの仲間の男がひそかに護身目的で銃器を隠し持っていたのだ。シーザーは突然の大声を聞いて、人間が銃で赤ちゃんザルを殺そうとしていると勘違いし、激しく殴りつけるのだが、すぐに事情を察して攻撃をやめ銃を湖に投げ捨てる。
『人間にも赤ちゃんを可愛がるサルと同じ優しい感受性があるのだ』という思いをシーザーらサルの集団が持とうとしていた時に、一丁の拳銃が見つかっただけで全てがぶち壊しとなり、再び『人間は信用できない存在』という信念を再補強してしまうのだ。
シーザーは一度した約束を決して破らず、それを人間にはないサルの倫理的な優位とさえ自負しているが(そしてその自負はクライマックスで崩れてしまうが)、人間は自分が裏切るが故に相手が裏切るのではないかという不信感を超えることができない。
人間嫌いのコバは、シーザーは人間に育てられたから人間が好きで弱腰なのだ、対話路線・平和主義では仲間は守れず殺されてしまうことが分からないのだ(先制攻撃をしかけてでも人間を押さえ込むべきだ)と、人間の主戦論者そっくりの信念を固めていく。
決定的な戦争を回避するため、仮想敵のことを理解しようとしたり、敵の立場を想像して配慮(援助)しようとする仲間を、まるで『敵(裏切り者)』のように忌み嫌うというのは『主戦論・排斥主義(不寛容・性悪説)』の人間にもある心理だが、ナンバー2のコバは人間を話し合って共存すべき対象とは見ていなかった。また人間側の主戦論者も、知能を高めたサルの集団を不快に思っており、可能であれば武力で殲滅すべきと考えている。
マルコムはマルコムで、悠長に話し合っている余裕などない、サルの集団を武力で討伐してからダムの復旧作業をすべきだというドレイフュスらの『サル排斥派・主戦論者』を必死に牽制している。サルのリーダーのシーザーが、人間と同等以上の知性と誠実さを持つ存在だと知ったマルコムは、自分が必ずシーザーと話をつけて電力を復旧させてみせるから攻撃を待って欲しいと要請するが、サルをバカにしている主戦派は『エテ公に何を言ったって無駄、さっさと駆逐すべきだ』という態度である。
サルのシーザーと人間のマルコムは、『敵であるはずの人間(サル)そのもの』を恐れているのではなく、『信用できない人間(サル)を滅ぼせという仲間の主戦論者・扇動者』がいつ暴走するか、抑えが効かなくなるかということを恐れている。
ナンバー2のコバとその追随者は、人間を嫌悪・憎悪して攻撃するしか生き延びる道はないという“ヘイトスピーチ”を繰り広げはじめ、遂には人間世界の戦争と同じように『何もしていないのに相手から攻撃を仕掛けてきたという既成事実(自衛と報復の大義名分)』をでっち上げて大衆を戦争へと煽るのである。
人間との棲み分け・共生の手段を模索するシーザーの対話路線に反旗を翻したナンバー2のコバは、サルの世界に初めて『政治闘争・クーデター・仲間殺し(相互不信)』を持ち込む存在として描かれる。
シーザーの組織したサルの牧歌的な共同体は、シーザーを家長とする巨大な家族のようなものであり、シーザーはその道徳性・実力・実績に基づくリーダーではあったが、いわゆる他の個体を支配する政治家・権力者ではなかったし、下位の個体の悪事を裁く者(処罰する者)でもなかった。
シーザーが制定した唯一の法は、漢の高祖劉邦の法三章よりもシンプルなもので、『サルはサルを殺さない』という擬似家族の仲間関係と共同体的な支え合いを維持するルールだけであった。しかもその決まりを破ったサルはおらず、多少の喧嘩や感情的な争いがあってもシーザーの調停・説諭によって全ての争いは殺害に至る前に和解に導かれた。
旧石器時代の文化水準に当たるサルの世界には、他の個体を殺害してまで得たい権力や富の蓄積が未だなかったということもあるが、『敵(人間)の意識化』によって、他の個体を従属させる権力や政治、派閥といったものが不可避に影響力を強めてくる。『猿の惑星:新世紀(ライジング)』は、政治にも法律にも拘束されていなかった牧歌的な擬似家族的な共同体が崩壊してゆく失楽園の物語でもある。
人間社会の形成と戦争の勃発のプロトタイプを『サルの社会』を通して描いているような作品だが、シーザーの生命を狙うクーデターを起こして戦争を扇動したコバは、『処罰のない徳治主義・王道の限界』と『政治的・法律的な支配の要請』を象徴する存在である。サルの世界に、政治と法律、権力、財産、自意識(自我の強化)という『文明の原動力』が静かに押し寄せてきているのだ。
シーザーは『ずっとサルは人間よりも優れた種だと思っていたが、所詮はサルも人間と変わらない存在である(嘘をつき裏切り仲間と殺し合う存在である)ということを知った』というシニカルなメッセージを語るが、これは『人間も所詮はサルと同じ』という人間優位の言説の逆転である。
『サルはサルを殺さない』という黄金則を語って命乞いするコバに対して、シーザーは『お前はもうサルではない』と言い放って下に落とすが、これは擬似家族主義の崩壊による失楽園の到来、法家的な厳罰主義の要請を感じさせる場面にもなっていた。
『猿の惑星』という古典的な名作シリーズを、現代の先端的な映像技術でアレンジしている作品だが、『創世記・新世紀』はサルがどのようにして人類に代わる地上の支配者としての地位を形成していったのかというプロセスを描いている。
次回作以降もまだ制作されるのだろうか。人間とサルの気質・欲望・政治の近似性、サルの知能の向上やサル社会の段階的な発展を見ながら、『人間の本質的な問題点・闘争と対話との分岐点』を振り返ることができるようなテーマが織り込まれているのも見所になっている。