岡山県倉敷市の女児監禁事件と“妄想体系・自尊心の肥大・人生の挫折感”が絡む被告の心理的要因

不気味な欲望や幼稚な妄想を感じさせる事件だが、藤原武被告(49)は博士号取得の大阪大学大学院で就職に挫折してから大学の知人とは没連絡となり、離婚後に更に社会・他者から遠ざかったともいう。

「夫婦の時間楽しんだ」=女児支配、日記で克明に―49歳男、7日初公判・倉敷監禁

就職が難しい人文系(哲学科)の博士課程ではあるが、一種のポスドク問題による就活の失敗と自尊心の崩れ、女性関係の不遇、脱社会的環境による現実認識の異常から生じた事件か。

勉強次元のエリートが挫折後に自意識と生き方を立て直せかった事が背景にあると思われるが、勉強・仕事での成功欲求(条件面の付加価値)と理想の女性が結びつき過ぎていた結果でもある。

藤原被告は学生時代には女っ気のない真面目一辺倒な人だったという印象が語られるが、それは20代まで女に興味・欲望がなかったからではなく『学歴・仕事での成果を上げれば理想の女に相手にして貰えるという通俗的な希望』 で(みんなが遊んでる時に)今必死に頑張れば後で良いことがあるという人生設計(先憂後楽の戦略)があったからだろう。

実際そういう人も少なくないが『今の快楽を犠牲にした努力』と『将来の金銭面・異性面での見返り』は厳密に釣り合うものでもなく、被告のように中途半端な真面目・努力は先憂後苦にも成りかねない。

藤原被告が女性と極端な幼さ(従順さ無力さ)に対する異常な妄想を募らせた背景には『自分のやってきた勉強・努力は無意味だったとの絶望』や『49歳の年齢でこのままうだつが上がらないと若い理想の女性との付合いは絶望的との焦り』を感じるが、妄想で肥大した自尊心・欲望を客観現実に折り合わせる事が不能になった犯罪。

ある人が真面目・無害かどうかというのは『外見的な勉強・仕事ぶり・遊びの拒否・女に無欲な素振り』などから単純に推測する事はできない。学生時代に遊ばない、女関連の話がないのも『真面目』というより『自信の無さ・楽しみを後に取っているだけ』である可能性もあり、人・異性と関わらない故の独善的妄想の弊害もある。

10~20代に好きな異性の一人もできない、性的妄想の一つもしないということは考えにくい。若い頃に好きな女の子を頑張って口説いたり、気に入りそうな所に誘ったりして告白したのに振られてつらい思いをするのは『自尊心の挫折経験』だが、これは『思い通りにはならない異性・他者』を知る前提のようなものである。

小学生の女の子を誘拐して『思い通りの女性に飼育したかった』だの『夫婦の時間を楽しんだ』だの世迷言を語ること自体が余りに情けないが、糞真面目な外観を装って学問の真似事をした時間はこの被告にとって確かに無意味。まだ恋愛しやすい若い年齢で、最高に好みの女に言い寄って、手酷く振られることで現実に目覚めるべきだったかもしれない。

これだけ頑張ったのにどうしてこんな目にとか、楽ばかりしているように見える人がなぜ幸せなのか等の『因果関係の不満(アンバランス)』は誰でも抱く可能性があるが、異性・仕事・金にせよ人生全体にせよ『思い通りにならない部分・自尊心や自己評価が崩れる苦境』が必ずある。

現実は偶然や運命、意志、能力・努力の複雑な織物である(因果関係にはランダムな要素が多数入り込んでくる)と体感的に理解できるかどうかが、妄想的な欲望に呑み込まれない常識的な判断力の基盤にもなる。