2002年のノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーの『プロスペクト理論』は、人間が損失の苦痛を利益の喜びよりも約2.25倍強く感じることを実験的に検証した理論である。
それまで同質的と考えられていた経済的な効用の見方を覆して、『利益と損失の非対称性(人間は利益よりも損失を重大なものと受け取める)』を実証的に明らかにしたことが評価され、投資家心理や賭け事の判断基準などに応用された。
サイコロの目が奇数なら勝ち、偶数なら負けという確率50%の賭けであっても、勝てば10000円を得て、負ければ10000円を支払うという条件には大多数の人は乗ってこない。プロスペクト理論は、確率50%の半々の賭けに対して、蒙るかもしれない損失の約2.25倍、最低でも22500円の利益の見込みが必要(そうでなければ割に合わない)と示唆するからである。
人間の効用や幸福感(自己肯定感)は『参照点』によって大きく左右される。
日常生活の上では、特に『参照点となる他人』が設定され『他人との比較・優劣』によって、幸福や不幸を感じる人も増えてくるが、こういった上を見れば切りがない参照点の設定をする人は永遠に幸福感を得られない(自分の結果と現状に納得できない)ジレンマに陥るか、自分よりも弱い他人を差別(蔑視)したい衝動・攻撃性に駆り立てられやすい。
自分の現状を“100”と仮定する時に、その100の現状が変化することになる『不可避な行動選択』をしなければならないとする。この時、現状の100の数値が増える(より望ましくなる・利益を得る)と見込まれる不可避な選択肢が提示された状況を『ポジティブフレーム』といい、現状の100の数値が減る(より不遇になる・損失を蒙る)と見込まれる状況を『ネガティブフレーム』という。
行動経済学は人間の意思決定の不合理性を明らかにした分野だが、ポジティブフレームとネガティブフレームでは、『最終的な結果』が同じでも人間は異なる意思決定(選択)をしてしまう。この理論の検証が明らかにしたのは、人間は『リスク(不確実性)』を嫌うのではなく『損失(現状が少しでも悪くなること)』を嫌うということである。
どちらの選択肢でも利益が得られるポジティブフレームでは、『確率50%で現状100が200になるが、外れれば現状の100に留まる選択』よりも、『確率100%で現状100が確実に150になる選択』のほうがより多くの人に選ばれる。ポジティブフレームの認識は『リスク回避の選択』を生む。
逆に、どちらの選択肢でも損失を覚悟しなければならないネガティブフレームでは、『確率100%で現状200が確実に150になる選択』よりも『確率50%で現状200のままで損失がないが、外れれば現状が100になる選択』のほうがより多くの人に選ばれる。ネガティブフレームの認識は『リスク追求の選択』を生む。
これは、先行きの見通しが現状よりも良くなると思っている人のほうが、確実な利益分だけを固めるようなリスク回避の選択をして保守的(現状維持的)になることを示す。
反対に、先行きの見通しが現状よりも悪くなると思っている人のほうがリスク追求の選択をして冒険的(ギャンブル的)になることを示しているが、これが損失が嵩んだ人や窮地に追い込まれた人が『泣きっ面に蜂(更に損失・負けを拡大する賭けに踏み出す)』になりやすい理由にもなっている。
利益・勝ちを重ねていくと『その利益分(勝った分)』を限度とするリスク追求まではする可能性があるが、それは『参照点』よりも低くなる損失を回避したい傾向の現れである。大多数の人は『もっと増やそう』ではなく、『今まで得た分』を確実に守ろうという保守的な態度に変化してくるため、不確実性のリスクと結びついた大きな損失をより回避しやすくなる。
逆に、損失・負けを重ねていくと『その損失分(負けた分)』を何とか取り戻そうとする無理なリスク追求をしようとするので、ただでさえ『参照点より低くなった現状』が破滅的レベルの損失を蒙った状態(破産・自滅)まで悪化するリスクが高くなる。
100万円の元金で投資や賭けをした人がいるとすると、150万円まで増えた人は『利益の50万円分の範囲』までのリスク追求しかせず、大半はその50万円の利益分をできるだけ多目に保守しようとするので最終的に利益を持ち越しやすい。
だが100万円の元金が投資・賭けで70万円まで減ってしまった人の多くは、『30万円分の損失』を割り切って受け容れることができず、30万円を何とか取り戻そうとするリスク追求をして、じわじわと損失の金額を広げていきやすい。100万円の元金を『参照点』とする限り、50万円、30万円と評価額(所持金)が減るにつれて、より『ハイリスク・ハイリターンな一発逆転型のリスク追求』に淡い期待を寄せて自滅・破産への道を転がりやすくなる。
プロスペクト理論は、このように持てる者(満足する者)と持たざる者(満足できない者)の行動戦略の違いを示す側面があるが、人間がなぜ損失や不遇、失敗を重ねれば重ねるほどにより不合理でハイリスクな選択に追い込まれていくのかを説明する。
それだけではなく、利益や幸運、成功を重ねれば重ねるほどに合理的・保守的ではあるが、『急速かつ大きな変化に対応できないメンタリティ(今までの損失回避のやり方を変えられないモメンタム)』に拘束される問題も示しており、リスク回避による利益確保の積み上げができなくなった状況の変化があると意外な脆さ・衰運(典型的な大企業病・制度疲労・固定観念への執着)に晒されてしまう。
現状を確率的に変更する選択肢において、何を選ぶのが正解なのかは厳密には分からない。
その『未来の不確定性』に対して『損失回避の傾向の違い(順境におけるリスク回避・逆境におけるリスク追求)』はあるが、自分が納得できる後悔しない選択は『利益(幸福)と損失(不幸)の非対称性の外部=価値観・関係性・世界解釈(社会解釈)』に依拠している部分も大きく、その数量化・比較化できない領域の個人差はかなり大きいからでもある。