いじめを根絶させることは不可能に近いが、学校はいじめ被害の兆候に気づいて『子供の生命・安全の確保』に最大限の注意を払う必要はある。

固定メンバーの集団では『好き嫌い・力関係の違い』が必然的に生まれるが、『いじめを許さない影響力のあるリーダー(教師)』か『いじめに関与しないメンバーのみの集団』ならいじめは起こらないが、多くの学校でその条件を満たせずいじめが起こりやすい。

いじめは学校の責任だと思いますか?

『いじめが悪い事』という善悪や常識を知らない子供はまずいないので、いじめをしていても教師・大人の目線から隠されるが、毎日接する教師なら『クラス内の空気・生徒の変化』や『誰が誰に対して強い立場にあるか』くらいは概ね分かる。学校の責任は予防の教育もあるがいじめの兆候に気づいてからの対応・安全確保にある。

大人社会でもいじめがなくならないように、『いじめ(力関係・集団力学を利用した個体の虐待・排除)』は、類人猿やサルの階層序列にも共通するマウンティング・格付けの遺伝要因に本源があるのか。人間の場合はそこに『自我の肥大・劣等コンプレックスや家庭環境・フラストレーション補償』が加わり複雑な動因も生まれる。

難しいのは、学校教育では『子供間の力関係・魅力・勢いの差』まで平等に是正するような指導まではできない、『個人間の影響力の差(立場の上下関係に近しい差)』はその子の個性やリーダーシップとして見なされることが多いという事かもしれない。

いじめている加害生徒のほうに対人魅力やコミュニケーション力(人心掌握の上手さ)があったりで、教師が逆にその生徒を気に入ってしまい、『いじめをする裏面・陰湿な本質』に気づかないケースも当然ある。

人の好き嫌いや対人魅力、会話の楽しさの相性というのは、『客観的な行為の善悪』に知らず知らず目隠しをしてしまいやすい部分もあり、『私にとって良い人が、別の人にとっても良いわけではないという事例(まさかあの人がそんな事するわけないの思い込み)』は子供時代だけでなく大人になってもあることではあるのだが…。

いじめを犯罪と見なす強力な罰則の設定をすれば、『殺人・暴行・傷害・恐喝』などの分かりやすい暴力中心のいじめは大幅に減るだろうが、『無視・差別・悪口・仲間外し・悪意あるからかい』のような個人の人間関係の好き嫌いや話し相手の選択、親しさを示す冗談として言い逃れできる部分のいじめまでは無くせないかも。