ラルクアンシエルのHYDEの『年齢を気にしない』の発言は堀江貴文氏も似た事を言っていた。個人的には同意だが『自分はもう年だ・年齢相応に』を口癖にさせる拘束的な社会構造と無難な人生設計の影響は強い。年齢・他者との比較・子供、あるいは職業・経済の下部構造でも自意識は変わる。
精神的に老け込まず、他者に説教臭くならない為にどうすべきか、自分自身が意欲的かつ魅力的に人生に向き合い続けるにはどうすれば良いのかは難しい課題ではある。
節制して太らない(極端に体型を崩したり動きを重たくしない)とかいう身体基盤や意識改革も関係するが、その為に「人並みの生活や常識感覚・手堅い人生設計」など何かが犠牲になりやすい面ももちろんあると思う。
ラルクのHYDEをはじめ、自分の業界で成功して知名度を得たり財を為したりしたアーティストや起業家(実業家)は例外で一般化できないとは思うが、雇用・給与の下部構造の縛りが弱い故の身軽さもあり、「ポジティブ・フィードバックによる気力の充実」の恩恵もあるだろう。
現代人は自我意識の肥大という傲慢さの原罪を背負う存在で、年齢(周囲・社会からの同調圧力)を意識しないパワフルな人は「生物学的な宿命・人生の有限性」に対する無謀な反逆者の観もある。一般の人は反逆するにも。行動を制約される下部構造とかつかつの人生設計で、生存の為の社会適応のうちに精神の自由度が落とされるところがあるが、人生の重圧・悲観に押しつぶされ過ぎない程度には頑張っていきたいとも思う。
結局のところ、「精神の無限性」と「肉体の有限性」と「社会・経済の規制力」と「他者の反応の予測困難性」の中で、人間は理想と現実を行ったり来たりしつつ、自らの能力と気力と孤独(他者との関係)などのせめぎ合いの中で落ち着くべき所に落ち着いて行かざるを得ないのだろう。『無限・永遠』の志向は、原始時代から続く宗教・思想のテーゼであり、どんなに立身出世や栄耀栄華を極めようとも越えられない『浮世・現実世界の限界』を如実に物語るものでもあった。
だが、「年齢に囚われない・何歳でもチャレンジできる」という精神の無限性に頼ったHYDEなり堀江貴文氏なりの態度も、80、90歳といった本当の高齢者になるところまで進めば通じない。
身体を鍛え精神を高めるとか新たな試みに挑戦するとか以前に、肉体・脳の有限性に致命的に阻まれどんなに頑張っても老い・死には抗えないわけだが、そういったどうやっても抵抗できない老衰の時までは、全力で生ききること(まだまだこれからやりたいことを追い求めていこうとする姿勢)に意義があると感じる。