正社員と非正規の差は客観的にどちらが上か測定可能な『売上・技能・知識・資格の差』ではない。入社時の長期メンバーシップと包括的忠誠契約の有無の差である。
城繁幸、やまもといちろう、宮台真司が「非正規格差がカワイソウなら、正社員の待遇下げろ」で一致
正社員と非正規の差が、努力や勉強によって身につけられる『スコア・スキル・キャリア』であるなら、非正規格差は社会問題ではない。なぜなら、受験勉強のように『その時点からの努力・勉強』で、現在の正社員以上のスコアやスキルが身に付けば、立場の互換性があるので『身分的・固定的な格差』ではなくなるからである。
だが言うまでもなく、日本の正社員雇用やキャリア査定(再就職活動)というのは、厳密な意味での『即時的・相対的な能力主義』ではない。どちらかというと『現時点でのスキル・能力・スコア』より『今までの職歴における勤勉・忠誠度』のほうが評価される割合は高く、客観的なスキル・実務の高低だけを見る会社は少ない。
高度経済成長期には『社内業務に特化したスペシャリスト・ゼネラリスト』が社内の実地教育で育成され、成長持続が前提だった会社の側も『定年まで辞めない勤勉な人材』を重宝していた。正社員の雇用と賞与が定年まで家族的経営体質で守られていたのは、従業員の為もあるが、それ以上に会社の為でもあった事に留意すべきだろう。
会社はなぜ正規雇用を守ってきたのか、一つは派遣労働を広範に禁止していた労働法の規制がかつては厳しかった事もあるが(現在も上場企業の解雇規制の要件は厳しい)、家族的経営体質と福利厚生によって『社員の精神・人生・家族を企業に一心同体にする包括的忠誠のメリット』があったからである。
包括的忠誠は全人的忠誠でもあるが、簡単に言えば『入社した企業に特化した人材育成(その会社以外で通用しづらいノウハウ)』と『入社後の年功賃金・昇進機会』によって、正社員は会社の命令であれば遠隔地転勤・配置転換・新規業務の学習など殆ど無条件に受け容れる忠誠心を発揮し人生の時間をほぼ全て預ける形となった。
一時期のフリーターブームや選択的な非正規雇用というのは、『企業への人生の時間・労力のほぼ全ての投入』への拒絶感から始まったものでもあったが、現在でも『主たる家計の担い手』がいて家計に余裕がある場合には、選択的に短時間労働や責任・負担の小さな仕事をしたいというニーズは多くある。
ある程度の勤続年数がある正社員が、非正規と同等の待遇にされることを不公正だと感じる理由の一つは、『包括的忠誠契約による拘束感・責任感・負担の重さ(自分の人生の大部分を会社に預けて貢献してきた年月)』が『客観的なテストや売上で評価可能なその場のスキル』と比較されることに納得しづらいからという事もある。
逆に、客観的なテスト・資格・売上・顧客評価などで測定される数値だけによって、正規社員と非正規雇用が分けられると、『包括的忠誠契約が衰退して企業を裏切る・重要な局面で辞める人材発生率』は高まる。雇用市場の流動化は実力主義を強めるが、会社の仕事の多くは『実力の高低の測定方法』が見つけにくいものでもある。
企業にとって『平均賃金前後を支払う正社員待遇』で雇用したい人材の絶対量は、成長率の落ちた成熟経済では少ない。学卒時点で良く見える人材でも、その中の何割かはそれほど企業利益や組織管理に貢献せずコスト化する。更に高齢化すれば大半の労働者は生産性が落ちるので一般労働者の非正規雇用化は企業の望む変化だろう。