地域社会の衰退や子育て経験の個人化(共有困難)の要因もあり自分も『子供を含む社会の一部との認識』が持てなくなった為、『自分と無関係な家族・子供の声』は実際以上の騒音として聞こえやすい。
子供がうるさい・元気がいいのは当たり前というのは、『地域コミュニティにおける子育て体験・子供のいる環境の明るさの共有感覚』に支えられていた。私もいずれは子供を育てるからお互い様という感覚、私の子・孫も普段うるさくて迷惑を掛けているかもの遠慮が、少子化・未婚化・ライフスタイル多様化で崩れてきた。
例えば、ずっと子供を持たないと決めている人にとっては『私が子供を育てて騒音で迷惑をかける可能性』は初めから想定不能であり、子供嫌いだから子供のいる場に参加しない人にとっては『子供のいる明るい環境の感覚』は共感が困難なものであり、子供が無条件に大人から大目に許容される伝統社会の常識は揺らいでいる。
孤独感・無関係感・疎外感も『他人の騒ぐ声がうるさく聴こえる条件』になりやすい。学校でも自分が参加して騒いでいる時には大声が気にならなくても、自分と無関係な集団が騒いでいるとやけにうるさく感じる経験はあるはずだ。高齢者で子供の声がうるさいという人が増えてきた背景にも、『単身世帯化・疎外感』が影響する。
社会学の内集団と外集団という概念を使っても良いが、近年は『子育てをする親世代・騒ぐ子供世代との直接間接のつながり』を何も感じられないという人が増えて、『自分と何の関係もない人たちが、毎日のように断り・遠慮もなく騒ぐ(我慢している自分がいないように騒ぐ)のは許せない』という不寛容に行き着きやすい。
社会学の内集団と外集団という概念を使っても良いが、近年は『子育てをする親世代・騒ぐ子供世代との直接間接のつながり』を何も感じられないという人が増えて、『自分と何の関係もない人たちが、毎日のように断り・遠慮もなく騒ぐ(我慢している自分がいないように騒ぐ)のは許せない』という不寛容に行き着きやすい。
これは外国人の移民問題につきまとう騒音トラブルとも関係した面があるが、『文化・言葉・生活様式の違う人たちの集団』が大声で騒いだりしゃべっていると、『実際以上のうるささ・不快感によるストレス(自分が疎外されたり生活領域が圧迫されているという不満)』が高まって、訴訟問題や暴力沙汰に発展しやすいとされる。