アイボや赤ちゃんロボなど心理的ケアをするロボットの潜在需要は極めて高いが、現状の人工知能では『心のないロボットの前提』が強固であり、ロボットが会話の相手をしてくれても感情的満足度にすぐに限界がくる。
逆にそこまでAIが進歩すれば、人が必死に他者(恋人・家族・親友など)を求める動機づけが落ちて、楽な方向でロボットとの関係を求めるようになり(ヒト型ヒューマノイドの身体構造の完成度にもよるが)、人類は激減するだろう。
ロボットや人工知能(AI)に『心』を持たせられるかの問いは、技術的な問題にも見えるが哲学的・存在論的な深い問いを孕んでいる。ロボットに心がないのは『自我・生存と複製の欲・主体性・自分の問題』がないからだが、ロボットは『人間のために作られた存在』であり『自分のために何かをする遺伝子』を持たない。
死を恐れてDNAの自己遺伝子を複製しようとする生物学的本能は、現時点では生命に特有の指向性と考えられているが、『自然発生的な遺伝子』を『人工的なプログラム』と同一視して良いかどうかはカテゴリー問題だろう。常識的には人は『自分のために動いて複製するロボット』を作らない、作れば人類の脅威のSF(空想科学小説)である。
人類は、科学技術の進歩の先に『心を持つロボットの夢』を見るだろうが、それはあくまでも『自分や人類に絶対に逆らわないとプログラムされたロボット』という前提条件つきである。人権のないロボットを道具化(悪く言えば奴隷化)するという以上の意味合いを持ちにくい。人同等の『心(自我・欲望)』を持たせれば、人類に従属する必然がなく、知能や攻撃性能で上回ったロボットはいつか人類に反乱を起こすというSF的世界観の流れになる。
なぜロボットなのか、『要求も食事も排泄もしない面倒くさくない都合の良い存在』だからで、利便性や自動化を追求した人類の歴史が行き着く先(監視的・機械的・プログラム的社会)を暗示してるような気がする。赤ちゃん・犬猫は途中放棄が許されない責任の重さ、生命の価値があって満足と負担が共にあるが、ロボットには負担がない。
高齢者になると、犬・猫が好きで飼っている人でも、『何とかこの子が往生するまでは頑張って生きていきたいけど、次の犬・猫を可愛がるまでは健康が持ちそうにない(死後のペットの世話を誰に頼むか悩む)』という人も多いので、80代以上くらいになると健康・寿命の不安でペットを飼うのを断念するケースも多い。
結局、ロボットの夢に投影される人間の欲望というのは、『利便性・自動化・正確性』といった人間のために仕えてくれる完璧主義で疲れない(眠らなくて良い)サーバントでもあるのだが、『メンテナンスとエネルギー充填による不老不死のイデア(非タンパク質の擬似的生命)』に魅了されている側面も強いのだろう。