美人と性格:美人は性格が良いのか悪いのか?

同時代を生きる大多数の人が容貌・外見の魅力を認めるいわゆる『美人』であっても、周囲に温かさ(近づきやすさ)の印象を与える『陽性・開放・親切の性格傾向』を持つ美人もいれば、周囲に冷たさ(近づきにくさ)の印象を与える『陰性・閉鎖・冷淡の性格傾向』を持つ美人もいて一概に言えない。

外見と性格、社会適応(常識的なライフスタイル)の双方に恵まれたオールマイティーな評価を得やすい前者が『本物の美人』と呼ばれることは多い。だが、それはその人と接する人が『気持ちの良い付き合い・心地よい印象・実害を与えられない安心感』を得られるから本物の美人と決めているだけで、外見上の造形や美観のレベルのみでは後者の冷たくとっつきにくい印象や他者をコントロールするような傲慢な印象を与えるタイプも『偽物の美人』とまでは言えないだろう。

遺伝的形質としての美の素因に恵まれていても、生得的な『外向性』と『内向性』の気質の偏りはやはりあるし、『家庭環境・教育水準・交友関係・金銭感覚・異性関係』によって思春期以降にはかなり多様な性格形成の差異やコミュニケーションの質の高低が生じてくることになる。

美も経済力と同じく『持てる者の余裕』を生み出す部分はあり、『持たざる者の嫉妬・怒り・怨嗟』とは概ね無縁であるが、それは言い換えれば『実体験・内面の苦悩としては容姿や貧困の悩み』に共感しづらいか上手くできないということを意味する。

『持てる者が表層的な同情・共感』を示すと、それが『どうせ自分自身には関係のない悩みのはずなのに悩んでいる振りをして』という形で傲慢不遜な態度や虚偽的な見せかけとして否定的に受け取られる可能性が常にあるということである。

美人でも容姿のコンプレックスはどこかしらあるだろうし、金持ちだって金銭の不安や節約(貧困になるかもしれないという蓋然性)と無縁ではないのだが、そういった欲を言えば切りがない類の悩みは『平均以上に持てる者の贅沢な悩み』として解釈されるだけである。

美人は『人から愛される・人から好かれる・人が寄ってきたり親切にしてもらえる』ことによって、『他者=自分を傷つけたり騙したりする敵・社会=自分を認めてくれない面白くない場』という悲観的な世界観やひねくれた攻撃的な態度を身につけにくい傾向(他者・社会に対して温和かつ友好的に適応しやすい傾向)はある。

しかし、他者から無条件に認められたり愛されたり親切にされたりする経験に対して、小学校高学年くらいからの思春期以降に『他者への感謝・協調・思いやり(=好意の返報性・社会的自己の自覚)』を持てるか、『自分の思い通りになる他者のコントロール感(=自己の特別視と他者の劣等視・自己愛の過剰)』を肥大させていくかで、性格の良し悪しは次第に分岐していく。

異性としての性的魅力は『自分が好きになれないタイプの異性』を惹きつける恐れがあるので、人によっては戦略的に『自分に必要ではないタイプの異性』を近づけないための予防線として『冷たさ・無愛想・無反応』を強調する人もいる。

逆に、『自分とお近づきになろうと思って近寄ってくる他者』を何らかの利益や利便に変えて利用できるのではないかという功利主義の計算を強めていく美人もいるだろう。人目を引くだけの美人になれば、自分が人並み以上に他人や異性を惹きつけるということにはいずれ自覚的にならざるを得ないが、その自覚そのものを性格の悪さとするのは嫉妬に過ぎず、『自覚された自己イメージの解釈・扱い方』にその人の段階的な人格・人柄の形成プロセスが現れてくる。

だが、美貌(見かけ)による他者の自己中心的な利用やコントロールは、短期的な損得感情の面では優れていても、長期的な人生戦略としては『周囲に自分の事を本当に慕ってくれる人がいなくなっていく・他者や社会を見下して虚勢を張るようなタイプの友人ばかり引き寄せて社会的孤立を深める・自分が利用していると思っている他者も自分を何らかの形で利用しようとしてくる(美や性に金銭との交換が絡めば夜の世界・悪い仲間へ誘導されやすい)』などが性格の悪さを見透かされてしまう代償として積み重なっていく。

結果、中途半端に美人であったからこその落とし穴(社会的・対人的な環境の質及び自分の若さ・美の段階的劣化の罠)に嵌る危険性もある。

本物の美人と偽物の美人という区別は適切でないといったが、『美貌・外見を自分の人生の幸福実現に活かせるタイプ』か否かというのは、20代前半くらいからかなり大きな人生の分岐点を静かに準備し続けている。

その地道で微妙な分岐のプロセスが『造形としての知覚的な美醜』ではなく、『人間的魅力や生き方を投影した顔つき・印象』を不可逆的なものとして刻んでいく。造形として美人やイケメンであっても性格の悪さ(他者への悪意・計略)を投影した顔つき、警戒心や不安感をかきたてる印象の顔貌になってしまうと、寄ってくる他者の質が一挙に悪化していく恐れがある。

性格の良い美人と見られている人は、意識的にせよ無意識的にせよ、『自分の美貌・外見の魅力』がそれ単独では自分の幸福や安心、成功、楽しみに結びつかないという現実を知っているように思える。

短期的な損得や他者の一方的な利用などよりも『自分を認めたり大切にしてくれて支えてくれる周囲の人間関係の質』を高めることこそが、遠回りに見えて最終的な幸福への近道であり、美貌だけを頼りにして『自分の思い通りになる他者・簡単に利用できる他者』ばかりを集めるような生き方をすれば、逆に『自分の人生の幸福の質を落とすような危険な他者(自分の持てるものの潜在的価値をできるだけ安く買い叩いてくる他者)』を寄せ集めることにもなる。

どんなに外見が美しくても、人間性・異性の本質を見抜く判断力や最低限の知性・学識を培えなければ、10代の早い段階で暴力を振るったり働かなかったりのろくでもない男に引っかかって、その後の人生を棒に振るような結果にもなる。

特別な努力や苦労をしなくても、周囲の男がちやほやしてくれてちょっと愛想よく付き合えば小遣いもくれるという安易な経験を重ねれば、学校教育から早期に逸脱して真面目に働く意識を形成できずに、人生の中盤以降に生活が荒んで仕事が見つからず困窮するということも有り得る。

美も経済力も一般的には『極端に持っていない人』よりは『ある程度持っている人』のほうが、精神的・実際的な余裕ができて他者にも関心を持てたり優しくできるので『性格が良い人』と見られやすいが、『極端に持ちすぎている人』の場合には慢心・傲慢・不信によって“自己愛の過剰・自己の特別視(特別扱いの当然視)”といった『性格が悪い人』の特徴を持ってしまう可能性も出てくる。

美貌も経済力も、そこに学力・職業(キャリア)を含めても良いが、そういった属性で自分が人並み以上に優れている(一時的に他人が自分の価値を褒めたり認めたりしておだててくれる)という自覚を持った時には、『美貌だけ(経済力・学力・キャリアだけ)』で自分の幸福や成功、安心が約束されて当たり前だという自惚れに誘導されやすくなるが、『見かけだけ・お金だけに頼った生き方』をすると自分に近寄ってくる人間の質が極端に悪くなってしまって、利用しているはずが利用されて次第に暗い世界へと引きずられていく。

自分はこれだけ美しいから(自分はこれだけ経済力・社会的地位を持っているから)、これくらいの幸せや対応をされるのが当たり前であるという慢心を捨てること、自分を並の人間とは異なる『特別な存在』として欲望・期待の量を増やしすぎないことが、『性格の良さ・最終的な幸せ』に近づくための必要条件になっていることは心に留めておきたいポイントだ。

美・経済力・地位はその用い方や見せ方によって、他人から『好意・尊敬・賞賛』を寄せられることもあれば『悪意・蔑視・非難』を寄せられることもある諸刃の剣であるが、それは裏返せば『自分自身を幸せにする要因の一つ』であると同時に『自分以外の他者を良い気持ちにしたり応援したり幸せにできる可能性の一つ』でもあるのだ。

美も金銭も地位も希少資源であればこそ、『人間関係・社会適応の長期的な質の向上=長期的な自分の幸福実現』に活用可能なのだが、自分が尊敬できたり好きになれたり協力できたりする人を集める効果を持つだけではなく、『自分に好意・協力・承認を寄せてくれる他者』を現状よりも少しだけにせよ幸せ(良い気持ち)にする作用がある。

『美貌・金銭・知性・権力』など自分の優位な属性に慢心して、『自己の特別視・他者の道具化』を進めれば、『自分を利用しようとする悪質な他者・自分を性格の悪い人間として指弾する社会=自分が性格の悪い付き合いにくい人間だと見られること』に押しつぶされていくが、人から好かれて認められやすい、見る人を良い気分にさせやすいという特長を『自分を評価してくれる他者(社会)の尊重と協力』として捉えていけば、『性格の良さ・一緒にいたいと思わせる雰囲気』によって自分の居場所や対人的な価値はよりいっそう強固なものとなる。