文民統制の生命線は現役軍人が首相・防衛相になれない事にあり、本質は『政治統制・法の支配・民主主義の手続き』にある。米国でも大将を指揮する軍長官は文民で、日本では防衛相の見識と選択・責任の履行が問われる。
文民統制が目的にするのは、軍隊が『政治決定・立憲主義・法の支配・民主主義のプロセス』にきちんと従っているかだ。日本では『平和主義による国際貢献活動や後方支援の中身』も問われる。背広組と制服組の優位性はクリティカルな問題ではないが、それが決め手になるなら防衛相が官僚・軍人の言いなりになっていて危うい。
日本の自衛隊に対する統制は厳しいものだが、厳密には自衛隊は侵略・攻撃の目的をも遂行できる『軍隊』ではなく、文民統制に加わる日本国憲法の利権主義的制約によって『平和主義・戦争放棄から逸脱する軍事的ミッション』には使用できない。戦前の文民統制の崩壊や軍の暴走は『現場主義による立法府・政治の無視』だった。
戦前日本の軍の民主主義的なコントロールは、現役の軍人幹部が閣僚になれる『現役武官制』によって制度的に崩壊することが宿命づけられていた側面もあるが、戦時中の日本の民主主義の不完全さは『軍に対する政治決定・立法府の優位』や『大政翼賛を抑止する政党政治の選択肢』が既に失われていたことからも明らかであった。
実力組織の『軍』は、文民統制と呼ばれる『憲法・法律・民主主義(国民代表が構成する立法府)によるコントロール』が及ばなければ、軍隊の暴力・威圧によって単独でも『クーデター・軍事政権樹立』が可能な潜在力を持つ。三島由紀夫の晩年の妄想も軍の実力への期待に由来するものだったが、軍の多重的統制は重要だろう。