インドの旧来的な伝統社会は、ヴァルナに基づくカーストの身分制度と家父長が家族を統制する男権秩序によって運営されてきたが、インドにも押し寄せた近代化・産業化の波と新興国としての国際社会へのコミットは『カーストの身分差別の禁止・男尊女卑の慣習の廃止・女性の権利と社会参加の拡大(男性の社会的経済的な優位の抑制)』を次第に進めていく。
住民数千人がレイプ容疑者を惨殺 制御きかぬ“怒り”、収拾つかぬ「レイプ頻発インド」
約13億人の巨大人口を抱えるインドは経済格差・教育格差が極めて大きく、膨大な数のスラム街・貧民窟が存在しており、近年はBRICsの一角とされたインドの経済成長もブラジルやロシアと並んで停滞気味である。
低賃金の第一次産業に留められ教育・職業を与えられず、新興経済社会の格差・貧困・屈辱に喘ぐインド人男性の相対比率の上昇が、インドの『社会不安・治安悪化・レイプ犯罪(性暴力による女性の侮辱・制圧)』の根底にあり、新興経済社会の果実から遠ざけられている不満のはけ口が、学歴取得・技術や資格の習得による社会進出を目指す(男性よりも良い社会経済的処遇に向かおうとする)都市で学ぶ女性に向けられやすくなっている。
ナイジェリアのイスラム過激派の“ボコ・ハラム”も、教育を受けて知識・技能を得ようとする女性、社会経済的に自立しようとする女性(男性の家長権に服属しない女性となる可能性)を非常に嫌って憎んでいるが、イスラム国やパキスタン、インドなどで勃発している集団的な性犯罪(女性の自由・権利を暴力で蹂躙しようとする犯罪)は『男性社会の既得権崩壊(女性の台頭・自己主張)に喘ぐルサンチマン』に由来している。
旧来的なインドの伝統社会では、奴隷(シュードラ)のような自分よりも卑しい出自・身分の者がいるというカースト制度、女性は家父長である男性(父・夫)に従うべき存在であり社会経済的にも男に保護・扶養されるべきだとする男権社会の制度設計(男尊女卑のシステム)によって、社会下層の男性の不平不満のはけ口を作り出し、男性の女性に対するルサンチマンは家父長制の慣習規範(男性社会のコンセンサス)で抑圧されていた。
欧米基準の近代化が『差別・蔑視による不平不満の解消』という人権を否定するようなルサンチマンの調整弁を吹き飛ばそうとしているが、人間の持つ偏見や慣習、優越感・劣等感は国家の法律や理知的な啓蒙思想ほどに一朝一夕で変われるものではなく、『自分よりも下位の存在・属性があるという差別(それは宿命的な所与のもので本人の自助努力によっては変えられないという固定観念)』によって脆弱な自尊心や自己評価を何とか支えている人たちが大勢残っている。
断片的な情報によって、感情的に興奮し暴走するインドの群集心理は、『現状への怒り』を原動力にして『暴力(犯罪・制裁)』に転換され得る潜在的な脅威・危険である。
公共交通機関のバス・電車で女子学生が無頼者集団からレイプされて泣き寝入りさせられたり下手をすれば殺される、容疑者が逮捕されれば司法の裁判・刑期の満了を待たずして刑務所を群集が襲撃して容疑者・囚人を引きずり出す、犯罪者を大勢で包囲して袋叩きにして殺害し街中に遺体を晒しものにする、公権力は群集の数に威圧されて私刑を制止できない……インドの法治主義や遵法精神の未熟さや揺らぎをショッキングに示した事件であり、数年前の中国国内の反日デモと称した内乱的な群集暴動を思わせるような事態である。
公権力に頼らずやられたらやり返す(極悪人は自分たちで叩き殺す)は中世以前の自力救済の私刑の復活であるが、この事件は更に不完全情報に基づいて先走りした群集が暴走した『冤罪の疑い』も強いのだという。冤罪であれば、無実の人間が公正な裁判や刑罰を受ける権利を力づくで奪われただけでなく、膨大無数の群集から刑務所から引きずり出され一方的に殴り殺されて時計台に吊るされたというとんでもない事件である。
男性社会・家父長制と女性の自由・権利の拡大、経済のグローバル化と国内の格差拡大・伝統産業の衰退、国内雇用を奪い合う移民排斥感情、ナショナリズムとミソジニー、法治主義と遵法精神の弱さ、中世的な自力救済と原始的な力の論理などさまざまな観点から考えさせられる事件で、インドほどの実際のレイプ犯罪や治安の乱れはないにしても、社会格差が開いて報われない層の不平不満が鬱積している日本も、完全に対岸の火事として見過ごして良い問題とは言い難い。
インド都市部で女性を標的にして続発する卑劣なレイプや残酷な殺人をどうすれば減らせるのか、近代化するインドの法律・理念と習慣・迷信のギャップをどのようにして教育・啓発・説得で埋めていけるのか、インドの大衆の雇用・仕事・所得と生活の満足度を高めるほど(誰かをスケープゴートにして憂さ晴らししなくても良いレベル)の経済成長の持続が可能なのかが問われているように思う。