若者の『○○離れ』の多くは、『お金がかかるモノ・活動・嗜好品からの離脱』として解釈できるが、『活字離れ』は記事にあるように電子ブックも含めた『ディスプレイを介したテキストの閲覧』にかなり置き換えられた影響もあるだろう。
『テレビ離れ』もウェブとの競合によって視聴時間が減少したと見ることもできるが、テレビの視聴率に占める中高年層の割合が高いために、『高齢者に合わせた番組・広告・ニュース・社会時評の編成』が多くなり、若者にとって必ずしも見て面白いメディアではなくなってきていることも影響している。
若年層の雇用構造の変化は『非正規雇用率・低賃金労働率の上昇』をもたらしているが、このことは『今のまま働いていればいずれ自分は中流階層になれるだろうという合理的予測』を困難にし、『将来不安・貧困回避のための節約・貯蓄の姿勢』を強めることになる。
もう一つはブラック企業問題やワーク・ライフバランス志向とも重なるが、日本の企業社会における働き方の選択肢は『フルタイムで丸一日を費やす長時間労働をする』か『パートタイム(非正規・バイト)で短時間労働をするか』しかなく、『ほどほどに働いてある程度余裕のある収入を得る』ということが実際には難しい。
“お金・中流的な消費スタイル”を重視するか、“時間・節約的な消費スタイル”を重視するかで若年世代ほど価値判断の個別の違いも大きくなっているが、お金と時間とやり甲斐を両立させられるような幸運なワークスタイルを確立できる人は少数派である。
『車・恋愛・酒やタバコ』というのは継続的に一定以上のお金がかかるものであり、現代の若者からは敬遠されやすかったり無理をしてまでやろうとは思わないものになりつつあるが……10~20年くらい前までは『みんなと同じように人生を楽しんでいる外観や付き合いの良さ(集団適応性)を示すため』に車や異性、酒・タバコ(場によってはギャンブル・風俗)、結婚(子供)などは“人並み・一人前の幸福な人生(だと大多数が承認するようなベーシックな生き方の外観)”にほぼ当たり前のようについて回るものであった。
現代でも消費社会・男女関係(家族生活)の中での見栄や世間体は無くなってはいないが、差別・偏見も強かったかつての時代には今よりも格段に『人とは違った存在として見られることに対する疎外感・恐怖感』は強かったため、車を持っていないとか恋人・配偶者・子供がいないということは、それだけでどんなに個人の価値観や興味関心を訴えても補えないほどの劣等感の原因(他人から自分が低く見られているのではないかとの偏見の想像力を刺激される原因)になり得たということでもある。
1970~1980年代までは今ほどの学歴社会ではなかったが、中卒者・高卒者でも製造業・販売業(営業)を中心とした安定した正規雇用の仕事が多く、真面目・勤勉(素直)であれば食いっぱぐれずにそれなりに車・家を買ったり結婚して子供を育てたりはできたし、『それをしない生き方への親・周囲の理解』も殆どなかったので、それをしないことは社会に適応(貢献)しがたい変わり者であるか怠け者であるかという偏見と直結していた。
今でも、自分が帰属するコミュニティや社会階層によっては、『このように生きるのが人としての幸せの道である(そうしなくても幸せだとか楽しいだとかいう異論は認めないし負け惜しみに等しい)という同調圧力・世間体』は非常に強いが、逆に言えば若年層ほどそういった『みんなと同じでなければならないというコミュニティ』に深くコミットしない人の割合(非正規雇用・フリーター・間歇的失業・親戚づきあいの乏しさなど)が増えているということでもあるのだろう。
それは“貧困化”であると同時に“自由化”でもあり、安定した経済生活の保障が弱くなることでもあるが、誰かにこのように生きるのが当然という圧力をかけられない気楽さでもある。
『みんな(世間)から自分がどれくらい幸せ・普通か見られているといった意識,みんな(同僚)よりも劣っていると見られたくない競争心,親が自分と同じような人生を子にも生きてもらいたい(典型的には手堅い仕事に就いてほしいや孫の顔を見たいなど)と思っているという価値観の継承』が、かつての日本人の勤勉精神や消費生活(家庭生活含む)と一定以上の相関を持っていた事は確かだろう。
そして、みんなが同じような人生観や価値観を持つように、さまざまなドラマやニュース、CMなどを通して誘導していく装置としてテレビを筆頭とするマスメディアの影響力があったのだが、そのテレビから若者が離れることによって更に『当たり前の生き方・消費の仕方(それをしないことが恥ずかしい・劣等感を感じるという感覚)』の共有を阻みやすくなったとも言える。
お金(所得)がないからお金がかかるものから離れるのだというのはその通りな面もあるのだが、無縁社会・個人化とも関係する“脱コミュニティ化”とも、『○○離れの現象』は関係しているように思える。
『脱コミュニティ化(持続的な帰属先の喪失)』の分かりやすい現れは、同期の同僚とお互いの人生を長期間にわたってそれとなく見合って語り合っていく『終身雇用制』の減少や崩壊である。
『固定的かつ継続的な人間関係』に基づく相互監視やそれとない自己顕示(競争心)のようなものが、かつてと比べればかなり弱まっていて『人は人・自分は自分の切り離しの意識(自分とは違う他人のあり方も認める人の増加傾向)』になっていることも『若者の○○離れ』を助長する要因と見ることができる。
あるいは、『○○から離れていない若者』がいる場合には、その周囲にある継続的な人間関係の中に『○○を積極的にしている価値観・集まり・文化』などがあるはずで、若者の未婚化・少子化などが問題視されている状況であっても、『周囲に早く結婚して出産している友達ばかりがいるような環境(今の時代はなかなか結婚しないと言ってるけど自分の周囲では20代前半で結婚出産当たり前なのにという環境)』があれば、その友達関係から離脱しない限りは自分自身もそういった人生を周りに合わせるようにして歩む可能性は有意に高くなる。
お金を稼ぎにくい雇用構造になったこと、コミュニティ性(帰属集団の中での同調・競合)が弱まったことは、『コミュニティの中での競争や見栄の弱まり』によって更に自分の時間・労力のすべてをかけてでももっとお金を稼ぎたいというハングリー精神を奪うところがあるが、そこにネットやゲーム、アダルト、アニメなどの低価格な情報娯楽の氾濫が加わることで『お金をかけないバーチャルな代理満足』も起こりやすくなっている。