最低賃金の時給1500円の要求は、なぜ実現しづらいのか?:資本主義の賃金決定システムと適度な不足感

みんなが『単純・短時間の労働』で楽に生活コストを賄える経済の仕組みを作る事は、資源供給に余裕があっても、『高度な専門性や職業地位の価値下落・キャリアの連続性と労働再生産』の点で難しい。

「時給1500円」を求めて…ファーストフード店員賃上げ要求の妥当性

店員や一般事務で時給1500円を貰えると、それ以上の『難易度・ストレス・専門性・長時間拘束のある職種』では、それ以上の給与待遇を考える必要が出るが、仮に店員・事務でも週休2日以上・月30万円以上稼げ物価も同じなら高度な専門性・職種の連続的キャリア(時間・心理の拘束が強いキャリア)で踏ん張る人は減る。

みんながどんな仕事でも時給1500円以上稼げ、物価も現在程度なら、仕事の悩み・ストレスは激減するが、『楽にモノを買えすぎる状態』だと『必要以上のモノ・サービスの消費』が起こるのに『モノ・サービスを全力で供給する生産者数』は減り続ける。モノ・サービスの供給不足によるインフレは共産主義の失敗要因だった……。

カール・マルクスは共産主義社会の理想を『能力に応じて働き、必要に応じて受け取ることのできる社会(みんながその能力に応じて全力で働くが人より良い生活をしようなどと欲張らない社会)』と定義したが、ここには先天的な能力主義が色濃く滲み、優秀な人材の努力・報酬の現金な部分のモチベーションが欠落している。

共産主義の挫折は、『共同体・他人の為の無償奉仕の喜び』を人間の本性とする前近代的な人間定義から始まったが、現代ではブラック企業のやり甲斐搾取とか呼ばれる教育指導とも重なる部分がある。実際はどんな仕事・能力でも報酬が一緒なら、手抜き・休みのサボタージュが起こりやすくなり、サービス労働も発展しなかった。

元々生まれながらに優秀な人間ならば、それほど努力しなくても社会・他者の役に立てる高度な仕事や働きができるのだからという前提はおそらく正しいものではなく、優秀で才能のある人間の多くも、何らかの俗物的・経済的な欲求を持ちつつ努力を続けてる現実は軽視できない。資本主義と共産主義の人間性定義の違いと競合。

お金を使うことに人がある程度慎重になるのは『簡単にお金は稼げない労働の常識・お金を使うこと(お金が減ること)の痛みの感覚』があるから。この常識を無視した自社通貨発行詐欺として『円天』なるものもあったな…1万円を数百円程度の負担感で使えるから円天はお得ですよ…品物があるならお得だが供給が続くはずがない。

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