トマス・ホッブズは『自然状態』を個人が自らの生存を賭けて他の個人を死滅させようとする『万人闘争の状態』であると仮定したが、『国家の領土・境界・主権』を譲ることなど有り得ない絶対的な価値として信奉する人たち(いくら人が死んでも死守すべき価値とする人たち)は、外交関係というものを基本的にどの国家が生存してどの国家が滅亡するのかを賭けて闘争する関係(敵と味方に分かれて奪い合う関係)という風に捉えている。
この記事は、『前回の記事』の続きになっています。
『戦争は外交の手段に過ぎない』というような個人の生命を軽視する主張も、『自然状態における個人間の殺し合い』を社会契約で調停しても、『国際社会における国家間の奪い合い』は永遠に続く闘争として存在し続けるという世界認識に立脚したものであり、多くの人は『殺し合い・奪い合う関係』に対抗する措置をリアリズムと呼んだりもするのである。
人間と国家の本性について『殺し合い・奪い合う関係』が正しくそれは変わらないと考える人は、国民国家の対立的なフレームワークを捨てることはないため、『国家の領土・境界・主権』は永遠に継続する価値のように思うことになる。
だが、人間の本性が本当に『生存と死滅、資源の奪い合いを賭けた闘争』にあるのかというと、大半の人は自分自身を振り返った場合には疑問だろうし、よほど追い込まれた飢餓や貧窮にない限りは、人間には『困っている相手を出来る範囲で助けて上げたい・懇願している相手に危害など加えたくない・恨みや怒りを覚えずにみんなが幸せに暮らせる状態が望ましい』という善良な本性が備わっていることもまた確かなのである。
歴史学者のカール・シュミットは、人間の本性は他者を死滅させようとする闘争にあるわけではなく、『資源の希少性(資源の不足)・生活の持続困難性』などの外的条件がある時に限って、人間は他者から資源や財産を奪い取ろうとする闘争の本能に囚われてしまうと考えた。現代であれば、この闘争の本性を生み出す外的条件に『自尊心の傷つき』を加えても良いだろうが、鳩山元首相のような生活の苦労や生存の危機を経験的に知らない大金持ちが、人間の本性をより『闘争から離れたもの・共生と利他を実現しようとするもの』として解釈するのは半ば必然的なことでもあると言えるだろう。
だが、世界を構成する人間の大多数は、鳩山さんほどに恵まれた環境や人生を生きていないため、絶えず国家とそれを構成する国民の本性は『闘争(他者の死滅)と平和(他者との共生)』との間を“感情・境遇・考え方”と共に揺れ動いているとも言える。
資源の希少性がなくなり、物質生活の満足と愛情・承認の獲得があるのであれば(それがずっと長く続くという確信が抱けるのであれば)、人間の多くは国家や境界線の意識から離れやすくなり、『生産・消費・娯楽・教養(思想)・関係(承認)の繰り返し』だけを行う戦争・暴力(領域とか資源の奪い合い)の側面で無害(安全)な鳩山さんのような存在になれるかもしれないが、現実の資源の有限性と個人の多様性がそれを未だ許してくれないのである。
みんなが貧困・孤独から離脱してハッピーになり、自尊心と知的好奇心を持って生きることができれば、『国家・国境線の存在意義(囲い込まれた領域の責任を持った管理)』は薄れていき、『全人類に共通する人権保護』だけが公的な権力に課せられた役割となるだろうが、そんな理想の共生・繁栄の世界がやってくる未来は『利用可能な資源量(環境汚染・砂漠化)・個人の能力・世界人口増加の人口動態』を考えるとやってきそうにもないのである。
また、カール・シュミットは『物質的な豊かさ・関係的な安心』をすべての人間が手に入れたとしても、国家や宗教、思想の排他的な物語性(異なる価値観を容認しない物語・規範)が生み出す『人間としての正しさ・悪さを巡る対立』が命を賭けた闘争にまで発展するリスクはなくせないし、人間がグルーピングして排他的な集団を形成してしまう本性の一つが『正しさ・道徳観(善悪分別)へのこだわり』なのだと語っている。
例えば、イスラーム社会に男尊女卑の慣習や非合理的な生活規範を改めるように求め、欧米や日本のような『女性の行動の自由・男性の支配欲求の抑制・コーランに囚われない自由な生活』を押し付けようとしたりすれば、いくら物質的な豊かさや関係的な安心があっても、そこから民族集団・宗教集団単位の新たな闘争やテロリズムの芽が生まれてしまう(自分がいくら物質的に豊かで他者に愛されていても世界観の対立から憎むべき敵をまた作り出してしまう)というのである。