映画『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の感想

総合評価 85点/100点

100年以上前、どこからか現れた巨人たちによって、人類の大半は捕食され、凄惨な『巨人大戦』によって文明社会は崩壊、さまざまな技術・知識も散逸してしまった。巨人との戦いに何とか生き残った人類は、空に向かってそびえたつ『巨大な三重の壁』を建設して物理的に巨人の侵入を防ぎ、『人類の生存圏』を確保して貧しくとも100年以上にわたる平和を維持していた。

諌山創の原作は読み込んでいないが、キャラクターの名前・設定などが一部変更されていたようだ。特に原作で人気のあるツーブロックのボブカットの髪型で、立体機動を用いた戦闘能力の高いストイックなリヴァイ兵長は登場しない。リヴァイに代わるキャラとして、ちょっと女好きでチャラいが対巨人戦で圧倒的な強さを見せるシキシマ(長谷川博己)が採用されている。

ストーリーも微妙に変更されていて、母親が巨人に食べられる初期の場面がカットされ、巨人の襲撃を受けたエレン(三浦春馬)が恋人のミカサ(水原希子)を助けることができずに、半ば見殺しにする場面へと差し替えられている。

小さな家の中に逃げ込んだ無数の人間は、人を手当たり次第に食う巨人への恐怖で誰も外部にいる人間を助けに行こうとはせず、ミカサの元へ行こうとするエレンも押し込められていた。

何とかエレンが外に出た瞬間、家ごと巨人に潰されて辺り一面が血の海となってしまったが、『戦闘を忘れた人類・強力な巨人に恐怖心で動けなくなる人類』というのが進撃の巨人のテーマの一つだろう。

100年の平和に胡座をかくとか、いつ平和が破られるか分からない、戦う精神を忘れて逃げ回るだけとかいう辺りは、現実の安保法案・改憲・戦闘の覚悟などの話題と絡めて見るような人もいそうだが、その意味では保守的・右翼的なメンタリティが想定する究極の危機のカリカチュアとして『対話不能な巨人襲撃』を解釈することもできるといえばできる。

当然、フィクションの漫画・映画と現実の政治・安全保障を重ね合わせることに意義は乏しいのだが、保守的・右翼的なメンタリティにおける有事の戦争事態や平和ボケ反対論(9条護憲を宗教化とする揶揄・嘲笑)というのは、自分たちが戦うつもりがなくても、一切の対話が通じない貪欲・凶悪な相手から一方的に侵略されたり虐殺されたりすることが有り得るというものだから、『進撃の巨人』の世界観の図式と似通ったものはある。作者もある程度はそういった日本の世情(安保環境の変化といわれるもの・壁の内側でほそぼそ暮らす人類の家畜視)を勘案してプロットを作った向きがあるのかもしれない。

まぁ、戦いを完全に放棄した平和主義批判としては、漫画『北斗の拳』のラオウがニコニコと作り笑いを浮かべてすぐに降伏してきた平和主義の代表者を、『その笑いで我の進軍を止めてみよ』と一瞬で殺してしまう場面もよく引き合いにだされたりする。『対話不能・暴力による制圧』という認知的セットは、人間の動物的本能を尚武の方向で揺さぶるものがある(子供時代の暴力・いじめなど言葉や理性を否定する序列階層もあるが)のだろう。

他人の赤ちゃんと二人で取り残されたミカサは、必死に巨人から赤ちゃんを守ろうとするも、赤ちゃんは食われてしまい自分も腹部に重傷を負ってしまう。巨人から救ってくれたシキシマに、立体機動の格闘術を訓練してもらったことで、最高クラスの戦闘能力を身につける。

エレンと再会してからのミカサは以前とは別人でありそっけない対応を取ってくるが、目の前で赤ちゃんを巨人に食われたミカサは、シキシマ譲りの『力こそが正義』という信念によっていったん壊れた自己を再建し巨人を狩り続けている。

ミカサを抱き寄せて一緒にリンゴを齧り合うシキシマ、それを見るエレンの嫉妬や自責の念(自分の戦闘能力の低さに対する情けなさ)など、原作にはなかった恋愛感情の葛藤めいたエピソードも挿入されている。廃墟で一人寂しそうにしているエレンに、人妻の女性が近づいてきて誘ってくるお色気シーンなどもあるが、人妻はエレンに擦り寄っている途中ですぐ巨人に食われてしまう。

『進撃の巨人』はミカサに『世界は残酷』と語らせるように、基本はいつ無知で貪欲な巨人に食われるか分からない弱肉強食の理不尽劇といったテイストである。巨人とは何なのかという謎解きは9月の後半にもつれこんでいくが、エレンが巨人と一体化して怒りの感情を爆発させ、巨人を圧倒的なパワーで殴り殺していく定番の場面などは前半に入っている。

エレンのように『巨人と一体化可能な人間』や『人間に近しい知性を感じさせる超巨大な巨人』がいることから、巨人の本性に人間の原罪めいた欲望が関与しているのではないかという推測も展開される。

映画版の『進撃の巨人』は原作が好きな人からは酷評もされているが、個人的にはエンターテイメント作品としてはなかなか良く出来ていて面白かったと思う。

三浦春馬のエレン、水原希子のミカサ、長谷川博己のシキシマ、本郷奏多のアルミン(失われた人類の機械文明・兵器文明に興味を持つ)、石原さとみのハンジ(巨人のことなら何でも調べたい知りたいの熱狂的巨人マニア)、桜庭ななみのサシャ(百発百中の弓の名手だが空腹を満たせると聴いて遠征軍に志願)、三浦貴大のジャン(エレンを毛嫌いする熱血漢で臆病を克服して立体機動戦に乗り出す)など、キャストの演技・雰囲気も映画の世界観に合っているが、前半ではそれほど立体機動を用いた巨人との戦闘アクションが多いわけではない。

巨人は観念的に何を象徴しているのか、巨人の顔貌からは知性・倫理(善悪)・プライドが感じられず、巨人の行動理念は空腹だから人を食うというだけの動物的なものであり、知性欠如の抜けた顔と素っ裸でたるんだ肉体は羞恥心・自己節制を失っていることを示唆している。

無知・怠惰・貪欲な裸体の巨人の怪物たちが跋扈する世界では、知性や倫理、徳があり人に大切に思われている人でも、一瞬で何も考えていないような巨人から簡単に食べられてしまう。

復讐の怒りに燃えて巨人を駆逐しようとする立体機動の戦士たちの思いも、巨人のあるかないかも分からない精神には何の影響も与えられず、巨人を殺しても殺しても人の悲しみや虚しさは癒されない。

『世界の理不尽・残酷さ』や『責任能力のない巨人を責める無意味さ』を反照するかのような巨人との戦いを通し、何を感じ取ることができるだろうか。『戦争と平和』という大枠のテーマと同時に、『人間の原罪めいた貪欲・怠惰』が何も考えずに食欲ばかりに支配されている巨人の像から突きつけられている。

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