徴兵の国民軍は近代国家の特徴だったが、先進国では『兵器の進歩・総力戦消滅・個人の権利向上』で徴兵制の有効性は概ね失われた。徴兵制は国家権力が個人の自由・生命にどこまで干渉可能かを問う。
徴兵制はないの根拠は、18条の『犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない』であるが、個人の尊厳原理において徴兵が実施できない根拠の力点は『苦役性・奴隷的拘束性』よりも『個人の意思に反する行為の強制』にある。犯罪の罰則や同意の仕事等以外では原則権力でも行為を無理強いできない。
第二次世界大戦における総力戦の悲劇は、『国家権力が個人の人生・時間・生命まで包摂した全面的な個人の統治・強制が可能なこと』に由来する。つまり国家は究極的には警察・軍隊といった暴力で、その人の同意を得ずに徴兵・徴用といった『その意思に反する行為の強制』が任意に可能だったわけである。
国家が法律を定めてやろうと思えば、国民個人の自由意思を完全に無理やり抑圧して命令を聞かせられるというのが、『第二次世界大戦期までの国家権力の暗黙の前提』であり、個人に『戦争に協力するか否かの選択権』は実質的に与えられていなかった。国家と世間が強面の強制力となって個人の意志を押さえ込んだ。
日本国憲法の先進性・啓蒙性は、いかに強大な力を持つ国家・軍隊でも、『個人の不可侵の人権・意思・私的領域』までは刑罰や課税などを除き、干渉・強制はできないと明言したことだ。違憲な法律は無効の趣旨には、国家は個人の人生・生命を直接に左右するその意に反する命令まではできないという立憲的抑制を織り込む。
他者の権利が侵害されない限りにおいて、個人の意志と選択を無理やりに抑圧できないという原理は、中国・北朝鮮・ISISなどにおいて採用されるべき原則かもしれないが、『暴力・同調・教育を用いてその国家や集団の構成員にその意に反する行為をやらせてきた歴史』が共同体的な戦闘の価値や戦争の正当化を支えてきた。
かつて戦争は道徳的な悪ではなかったが、近代国家は膨大な数の国民を国民軍の構成員とするための教育・広報・訓練を行ってきた。個人の自意識を国家の拡大・利益と一体化させ、自分が死んでも国家が威勢を強めるなら良いという教育と共同幻想が徴兵を支えた。現代のように個人と国家の距離が開くと徴兵も戦争もやりにくい。
武藤議員が、自分や家族の生命が大切だから戦争に行きたくないというのは利己的な個人主義として批判したが、逆に『自分や家族の生命を守る為なのに、自分・家族が危険に晒される戦争をする事自体おかしい』の考え方も示唆するもので、国民の人生・生命を道具のように扱う自国・敵国の権力者がルール違反という話にもなる。
イスラム過激派の自爆テロやアフリカ紛争地の少年兵とかの問題で『洗脳教育・その意に反する行為の強制』は顕著だが、日本の安保法制とは別に、途上国の国々・特に指導者となり得る層に『権力暴力・慣習・家長権等でその意に反する苦役・行為が強制されない(皆が安心できる)社会づくり』を未来の課題として訴えるべき。
徴兵制や集団的安保体制の問題は、本当は先進国間の問題というよりは、旧第三世界や旧共産圏、独裁国家、テロ組織などを中心として、『武器と軍隊を持った勢力が何でもやりたい放題に他者に強制しても良いとする原始的な価値観』を指導者のプライドや啓蒙意識、知性向上の側から自己修正していくことに重点があるかも。
やろうと思えば何でも強制できる暴力・軍隊を持っていても、立憲主義・人道主義の観点からそれをやらないという自制心のレベルは、先進国では直接的な侵略行為・内政干渉の観点だけから見ればかなり上がってきたが、それでも『暴力で優れた側が何かを強制しても良いとする価値観』は新興国・途上国に色濃く残る。
軍を支持する心理要因としては、『経済格差や貧困問題に対峙する軍隊の禁欲的・清潔なイメージ』もある。日本の2.26事件で財界・財閥の大物が『日本の政治を私益で壟断し庶民を苦しめる奸物』と見なされ、『軍事的拡張の正義・軍部の清廉』が強調されたように、庶民は経済の世界よりも軍に親近感・正義性を抱きやすい。