少女遺体「野宿する」とLINEで
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子供が被害者になる事件が起こった時に、『良からぬ悪友との交友関係・いじめや対人トラブルの兆候・夜遊びや異性交遊・親の過度の管理主義や放任主義』などが明らかになると、事件の真相や加害者の責任よりも『子供本人・親の落ち度』がクローズアップして養育責任・自衛意識の欠如として叩かれやすくなる。
確かに、小学生とほとんど変わらない体格・意識の小さな中学1年生の子供に、完全に『フリーハンドな行動の自由(夜間外出の自由)』を与えることは危険性が高いし、もしもの時に適切な対応や責任を取れないことが多い。
子育て論や法律論としては反論しようのない常識の正論ではあるが、正論過ぎるが故に『我が子が被害を受けたばかりの親・家族』に向けて語る言葉としては、ほとんど無意味であると同時に今言ってみても仕方のないこと(おそらくその親としてもいいか悪いかの常識論としては承知していたが実行できなかったこと)である。
犯罪に対する自衛意識や予防策を強化するために、『被害者の落ち度・問題点』を洗い出して警鐘・忠告の材料にすることには、『自分たちが危険な目に遭わないためにできるだけ夜間は出ないようにしようという意識の強化』もあるが、それ以上に『決まったルール・常識を守らなかったからあんなひどい目に遭ったんだよという自己責任・自業自得』を煽る好ましくない側面もある。
このケースは、親が監護責任を果たすべき12~13歳の子供であったから、『親がもう少しきちんと子供の行動・危険回避に責任を持って指導すべき・もっと子供が何をしているかに興味や注意を持って安全な生活ができるように守ってあげるべき』という正論は磐石なものだろう。
だが例えば、成人男性が夜間の帰宅時にコンビニに行っていきなり鉄パイプで殴打される強盗事件に遭ったとして、『こいつは夜間に出かけたから被害に遭ったんだ』となり、成人女性が薄暗い早朝の出勤時に路地に引きずり込まれて性被害に遭った場合に、『この女性は明るくない時間帯に短いスカートで出勤しているから悪いんだ』というような被害者の落ち度を過度に探ったり、人間のあらゆるリスクをゼロにしようという極端さに傾斜する可能性も否めないのである。
そもそも、現代では男女雇用機会均等の促進によって、深夜早朝のコンビニでも若い女性店員が働いていて、長距離の運送をしている女性ドライバーだって増えていて、『女子供だから夜は外に出てはいけないというルール』は仕事や生活の上でも守りづらい状況にある人が多い。
学校の部活でさえ、終わって帰る頃には9時過ぎくらいになることは珍しいものではないし、不良でもギャルでも何でもない真面目なそうな学生が9時~10時以降に自転車で帰宅している姿などもざらに見かけるものだ。疲れきった感じのサラリーマンの女性が終電で帰っている風景などもありふれた風景の一つであり、日が差さない夜になったら血に飢えたドラキュラや悪鬼が徘徊するとでもいうようなイメージで、日常生活や仕事・人間関係をこなしている人はまずいないはずである。
個人的には『夜間・早朝の外出』も割かし好きなほうだが、登山のアプローチでちょっとした市街地を夜中に歩いたり、映画館のレイトショーの帰りがけに徒歩でわざと1時間くらいかけて真夜中の道をテクテク歩いたり、ゴミ捨てのついでに早朝の繁華街をぶらついたりもする、夜でも0時くらいまでは結構ランナーやウォーキングの人と擦れ違ったりもするので、『静かな夜・朝の時間帯での運動や感覚の魅力』を感じている人も少なからずいるのだろうと思う。
夜間外出は、大半の成人男性の視点では目だった危険はまずないとも言えるが、無関係な他者からの殺人事件に遭遇するとしたら、年間発生件数からしても相当に運が悪いとしか言いようが無いが、腕力・抵抗力の面で弱者と見られやすい女性・子供の場合には男よりも一段リスクは上がるだろうから、『場所・時間』によっては一人での外出は気をつけたほうがいいのだろう。
基本的には、日付けが変わるくらいの時間帯からは、『誰とも会わない確率』のほうが高いとは思うが(特に住宅地近辺の小さな道路などでは歩いている人自体ほとんどいないものだが)、国道沿いとかのある程度明るい道なら、季節によっては道路工事や警備員の人など結構人はいたりもする。
やはり一番悪いのは加害者であり、未成年者・子供に対する親の監護責任はあるのだが、『実質的な夜間外出禁止令・過剰な暗さに対する恐怖感・わずかなリスクも許容できない過剰防衛主義・統計的傾向を無視したクライムフォビア(犯罪恐怖症)』にまでいってしまうと、夜・明け方は外に出られず登山・水遊びもできず、他人はみんな犯罪者予備軍で、恋愛も性も自由に楽しめない、好きなファッションもできない(必要最低限度以上の行動・関わりを避けて冒険心もチャレンジもなく機械的・規則的な日常を消費していくスタイル)といった感じになり、人生や人間関係そのものを楽しめない副作用も大きくなる。
今回の事件では不幸にも、『子供の夜間の野宿・テント泊の冒険心や浮かれ気分』が『残酷・執拗な虐待・殺害』につながってしまったが、この二つの出来事は法則的な因果関係で結ばれているというわけではなく、今回は男女二人で野宿ということで余計に道徳的な批判も起こりやすいのだが、『(親が認めたり近くで見守ったりしている上での)未成年者による冒険的な一人旅・サイクリングや鉄道、テント泊の旅』ということをしてきた子供は少なからずいるのではないかと思う。
どれくらい親が子供の旅や遊びを遠巻きながらも見守るかというレベルの違いはあり、この事件では『子供にフリーハンドな生活行動の範囲』を与えすぎたという問題点は大きいのだが、本来であればこういった冒険めいた旅を子供がしたいといった時には、『子供のあなた達だけでは危ないからダメだけど、私(親)も一緒についていくならいいよ』という感じで、隣にテントを一緒に張って星を眺めたり鳥・虫の声を聞いたり風を感じたりしながら寝てみたら良かった、そうすれば夏休みの良い思いでにもなっただろうにと惜しまれる。
事件の話からは離れるが、屋根のない場所で寝るという『野宿・テント泊(非テントサイトでのフリーなテント泊)』は現在はアウトドア系の遊び方やカルチャーの一つとして認識されることも多く、やったことがない人がやってみたら『はまる非日常の解放的・自然調和的な要素』がたくさんある楽しい遊び方の一つではあるのだが、『野宿=帰る家がない人や悩んでいる人の逃避的な寝方』というネガティブな定義だけで捉えられやすいのも残念なことである。
大阪府高槻市の殺人事件は、その犯行形態が30ヶ所以上も刃物で切りつけるなど13歳の子供に対する加害行為としては『執拗・残酷・冷淡』が目立つ異常なもので、何のつながりも関係も無い赤の他人(車を運転可能な18歳以上)の複数の加害者が関与していたとしたら、事件に至る経緯がどのようなものであったのかが疑問である。
もう一人の中学1年生の男子生徒が何とか生き残っていて欲しいと思うし、まだ監禁状態などに置いていて男子生徒を殺害していないのであれば、犯人にはこれ以上の残酷な犯罪行為に手を染めずに自首するという選択(複数犯なら誰かが過ちを悔いて通報する、男子生徒を逃がしてあげるという選択)をして欲しいと思う。
早期の犯人の特定と逮捕を願うばかりである。『被害予防の注意・警告』ももっともな正論ではあるが、『加害予防をする上での意識変革・友達関係のあり方・他者の気持ちへの想像力』というものを人の道を踏み外しかねない虞犯少年や少年グループに対して早期に重点的に再教育の形で行って行くようなシステム作りも急がれる。
夜間に出来るだけ外出しないという自衛意識を持つことも大切だが、『犯罪を犯すかもしれない自分・仲間意識』というものに、虞犯少年・少年グループが自覚的となるようにアプローチはないものかとも思う。
軽い気持ちやノリでいじめ・恐喝・拉致などを起こそうとする時に、仲間を思って『バカな行為はやめておけ・こんなバカなことをしてもすぐに捕まるだけ・人を苦しめたり傷つけるようなことではない明るい楽しみや遊びを見つけよう』という当たり前の発想の転換やまっとうな遊び方の模索ができないというのはなぜなのだろうか。
『類は友を呼ぶ』とはいうが、自分自身が『人間の屑と呼ばれても仕方ない集団的な行動・価値(犯罪行為・弱者虐待・逆恨みなどを促進するネガティブで誇れない心理・行動の領域)』に踏み込んでいないかを振り返る視点を誰もが持って欲しいと願うが、殺人・監禁などは例外中の例外ではあるが、学生時代から客観的に見て弱い者いじめや虚勢・犯罪自慢、犯罪的チンピラ的な集団化などの『カッコ悪い・気持ち悪い・人として唾棄される・自尊心や目的意識を放棄した生き方』というものはよほどの事情があっても、やはり避けるべきなのである。
成育環境や脳の機能的特性、仲間関係の同調・興奮、他者・社会への逆恨みなどがそういった人道を踏み外さない精神機能を麻痺させたり破壊するのだとしたら、『人間が人間であることをやめる・人としての尊厳も良心も捨てるという悲しい心理状態』が加害者やその人間関係の中でも展開されていることになる。
被害者が受けたであろう苦痛や恐怖、絶望を思うと察するに余りあるが、こういった行為を実際に実行できてしまう、複数の人間がいてその異常性や残酷さを指摘し制止できないという加害者たちの現実の荒廃・壊れた心というのも、想像すると非常に空恐ろしいもの(普通の人間の外観を取って生活しながらも内面が鬼畜化・外道化しているというギャップの大きさの怖さ)がある。