高学歴は会社員・公務員のサラリーパーソン上層のパスポートにはなるが、学力・研究能力自体はビジネスや企業適応とは関係がない。修士博士の学位は医師・法曹・エンジニア・科学者でなければ、企業・団体の需要が余りない。
京大院卒でゴミ収集バイト。なぜ高学歴プアという現象が起きるのか?
大学院は建前の上ではアカデミシャン(大学人・研究者)や高度なスペシャリストを養成する研究教育機関だが、米国のビジネススクールなど例外を除いて、市場経済や企業社会への適応性を高めることを目的としていない。民間では自分の専門が企業の研究開発部門にマッチしなければ、院卒は学卒より採用されづらい。
特に文学・哲学・史学・社会学などの文系分野の大学院は、企業のビジネスや利益になる研究開発部門とは殆ど無縁だ。高度な文献学・教養・思考能力に基づくリベラルアーツや言語的能力は人生を豊かにしてくれるが、それが企業で特別に求められる場面は、一部の教育産業を除き想定しにくい。教員・講師での応用はできるが。
リベラルアーツとしての文系諸学は、それ単独でサラリーパーソンとしての優位を保障することはないが、一般教養や興味関心の広さ、社会認識(世界理解)の深さとして、自らの人生や精神、会話を豊かにしてくれる効用はある。それを活かしたコミュニケーションや職務への応用(意識の切替え)ができるかどうかが鍵だろう。
大卒段階で就職せずに大学院まで進む人は『(研究・調査・文献等で)自分のやりたいことをやりたいこだわり』が強い人も多い。アカデミシャンやスペシャリストとして経済生活への適応が難しい場合、その場凌ぎの仕事を転々とするワーキングプアになる可能性もある。学業と仕事の意欲の互換性があれば仕事面の伸び代もある。
学歴社会における弊害として『偏差値の上位性・数値化される成績・全国での試験順位』等を、そのまま将来の経済人としての稼得能力に置き換えてしまう勘違いもあるが(親世代にも多い)、進学校1位・全国模試5位とかの成績を『人よりも楽に稼げる経済適応の保証』として解釈する慢心は、試験外部の競争原理を見ていない。
高学歴なのにワーキングプアはおかしいという直感も、『高学歴=並の人よりも楽に多く稼げるはず』という誤解に基づくもので、大卒者が少ない時代に、現場の肉体労働よりも経営・専門の頭脳労働のほうが楽という間違った先入観をもたれやすかった事とも関係する。現実は高学歴の仕事の方がハードで高負担な可能性が高い。