中絶は、他者や法から非難されるべき罪悪か?:普遍主義とパーソン論から考える

僕はキリシタン(カトリシズム信奉者)でも生命至上主義でもなく、人工妊娠中絶(堕胎)に関しては『パーソン論に基づく合理的な容認論』の立場を取るので、中絶を社会的・倫理的な罪悪として非難することはなく、そこに至る他人の個人的な経緯や理由にも関心はない。

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自分が男性であるため、自分が妊娠して中絶をする当事者にはなり得ないこともあるが、自分が養育のお金を出すわけでも子を責任もって育てるわけでもない『他人である女性の妊娠・出産』に関して、何らかの強制力のある規範・善悪(罪悪感)を押し付けたいという感情や判断を初めから持っていないというのに近いかもしれない。

出産するかしないかは、子を宿す母体を持つ女性(結婚して共に子の扶養義務を負う覚悟と能力のある相手の男性の意見も考慮すべきだが)の自己決定権に委ねるべきである。

それは、実際に自分の身体で妊娠して出産する女性本人以上(本人と密接な関係性にある相手・親族など以上)に『産むべきか産まないべきかについて真剣に悩み考えられる主体』はいるはずもないからである。

なぜ中絶を強制的に禁止すべきでないのか、『望まれずに嫌々ながら産みだされる子供』は、その母親の出産時の心理を知ってしまえば自らの出自に相当に重たい否定感情や罪悪感を背負いこむことになるからである。

胎児も殺してはならない人間ではないのか(堕胎は殺人ではないのか)、パーソン論の観点では、中枢神経系が未成熟であり自意識・社会的認知が発生していない発生早期の胎児は『ヒト(生物学的なヒト)』ではあっても、法的に一律に保護されるべき『人間(保護法益・人権が付与された主体)』ではないので、社会的(対人的)・法的に存在価値が認知された出生後の人間を殺害する犯罪行為とは質が異なる。

親から愛されなかったという物語性の解釈を変更して強く前向きに生きる道は確かにあるが、その道はかなり狭く細いから(存在否定の物語性による性格や世界観の歪曲を回避できるか否かはその人の気質・出会い・運によるから)でもある。

子を育てるつもりがない、子を愛するつもりがないのであれば、初めから妊娠しないように否認を徹底すべきだったという後からの批判・不満はあるかもしれないが、産まずに中絶するという選択肢(=妊娠した女性本人の意志に反して無理やりに出産させられることがないという選択肢)は容認されるべきだろう。

もちろん、育てるつもりも愛するつもりもなくてもただ産みたいという人でも産む選択も認められるべきだが、『産むだけでその後の一切の責任を放棄する行為』と『産まずに中絶する行為』との間に倫理的な優劣や是非の区別が明確なものとしてあるとは思わない。

無論、親から出産後すぐに施設に預けられたり虐待されて捨てられたりした人が、事後的に幸運な人生の巡り合わせがあって『産んでくれただけでありがたい』と思うケースはあるかもしれないが、反対に『なんで愛情も興味もないのに無責任に産んだんだ』と死ぬまで恨み続けたり反社会的な性格傾向を持ったり、自殺してしまうようなケースも同様にあるだろう。

いずれも結果論でしか分からないことであり、『産まれてきたからには頑張って生きるしかない』や『産まれてきた親のない子供にできるだけ政治・社会・地域が福祉的かつ好意的な支援の手を差し伸べるべき』とは言えるが、初めから親がいない(家庭がない)、特定の愛着関係(甘えられる場)がない精神発達上の不利益は、もっともらしい理論であれこれ言えても、本当のところは当事者以外には誰にもわからない苦しみと傷つきを背負い続ける。

人間の生命の価値を判断する基準として、とにかくヒトの生命が芽生えた瞬間から絶対に殺してはならない特別な価値があるとするキリスト教的な『普遍主義』がある。

人間の生命価値の普遍主義を取るならば、極論すれば精子と卵子が受精した瞬間から、ヒトとしての外形を全くとっていなくても、ヒトとしての意識(心理)の萌芽さえなくても、受精卵から細胞分裂が進行する生殖細胞であっても、絶対に破壊してはならない『特別・神聖・霊的な価値(人に固有の尊厳・霊性)』があるということになる。

この普遍主義の立場では、ヒトの受精卵を破壊してES細胞(胚性幹細胞)を取り出すことに殺人に近しい倫理的問題があるということにもなり、そういった倫理的批判に配慮した研究の必要性から、受精卵を使わなくても良い山中伸弥京大教授のiPS細胞(人工多能性幹細胞)が評価されたりもした。

倫理学分野で定義される『パーソン論』というのは、人間の生命価値の究極的根拠を『私は生きたい・私を殺さないで欲しい・仲間(他者)を殺してはいけない』と本能的・一般的に推定される『人間の人格・意識・知性』に求めるものである。

その『人間的な人格・意識・知性』が社会的あるいは法的に守るべきとする『出産後の人間の生命・尊厳の保護』までを包摂するのがパーソン論である。

パーソン論の前提にあるのは『産まれてきた後のヒト(女性が産みたいと思っている胎児及び自己決定した出産後のヒト)を法律で守るべき人間とする定義』である。

誤解されやすいのだが、厳密にはパーソン論は受精卵・胎児の生命の価値をすべて否定しているのではなく、ましてや人格機能や知性の劣る知的障害者・認知症者の生命の価値を優生学的に否定しているのでもない。

パーソン論とは想像力による処罰・非難を排除した世俗的な現実主義であり、受精卵・胎児の生命の『社会的・公的な価値(女性本人や近しい関係者以外が強引に介入して産ませたり中絶を法で罰したりできる価値)』をある程度まで否定する理論である。祝福されず喜べない妊娠・出産、無理やりに強制される出産などを回避しても、法律や世間、他者に強く非難されたり処罰されたりすることがない理論だとも言える。

故に、妊娠した女性の出産の自己決定が行われておらず母体外に露出していない『受精卵・胎児』は、パーソン論においては『社会的・公的な権利主体』ではなく『母子一体感に根ざした私的・半公的な権利主体』の地位に留まることになる。

つまり、中絶可能期間とされる時期の堕胎は、『本人(相手)の倫理的な苦しみ・後悔や罪の意識』として認識されるべき可能性がある問題ではあっても、『法律による処罰・他者(社会)からの道徳的な非難』に晒されるべき問題ではないというのが『パーソン論』の立場であり、そうではなく受精卵・胎児であっても本人(相手)や関係者だけの範囲に留まらない法律・社会・宗教で守るべき生命(生存権の主体)である、中絶は社会的な保護法益を侵害する犯罪(罪悪)であるとするのが『普遍主義』の立場である。

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