タイトルだけは随所で聞いていたアニメ『PSYCHO-PASS(サイコパス)』だが、huluで幾つか見てみたら、人間の心理状態をサイコマティックで数値化して管理するという『シビュラシステム』を主軸とした近未来SFのプロットが面白くてはまってしまった。パート1(全22回)の第13回まで見終わったところである。
西暦2112年、人間のあらゆる感情、欲望、価値観、社会病質的(サイコパス的)な心理傾向はすべて『シビュラシステム(高度かつ社会網羅的な人工知能)』によって記録・管理され、常に監視官・執行官が社会を巡回して『個人の犯罪係数』を測定することによって、あらゆる犯罪はシステマティックに可能な限り事前抑止されるようになっている。
犯罪係数が規定値を超えれば、精神の色相(社会適応・他者配慮・平和志向・感情制御などの精神の安定度)が濁っていると見なされ、実際に犯罪を犯していなくても、遠からず必然的に犯罪を犯すに違いない『潜在犯』として拘束あるいは即時にドミネーターで分子レベルまで分解されて排除される。
ドミネーターという公安局の監視官・執行官が持っているシビュラと連携した武器の発想も面白い。ドミネーターを対象に向けて照準を合わせると、『犯罪係数(サイコパス)の自動測定』がスタートし、犯罪係数が一定以上の数値を示すと『執行モードの選択』が可能になる。
犯罪係数の低い一般の人間に対しては一切の制圧・殺傷(パラライザーやエリミネーターのモード)の発砲をすることができない。監視官と執行官は『対象の処遇』に対して自由意志で判断するのではなく、シビュラシステムの数値計測・選択可能なモードにすべてを委ねていて、執行モードでトリガーを引くか否かだけを選択できる。
そのお陰で『対象(犯人)に対する殺意・怒り・排除への罪悪感』など、監視官・執行官は精神の色相を濁らせる感情を持つリスクが低く、シビュラから与えられた使命・任務を黙々とこなすだけである。
故に、シビュラシステムに反旗を翻している反管理社会派・自由派からは、公安局の人間は『シビュラの犬』と呼ばれる。
執行官になっている人間は、犯罪係数が上昇している潜在犯で、本来であれば拘束・保護処分(矯正医療施設への送還)・排除の対象者であるが、『犯罪者の心理・行動の予測がしやすい人材』としてシビュラに活用されている。執行官はその犯罪係数の高さから犯罪者に転落するリスクもあるため、常に監視官(心の色相が極めて濁りにくく頭脳も明晰な監視官はこの社会における最高レベルのエリートである)が同行していなければ外出の自由がない。
シビュラに生活・仕事・娯楽・交遊などありとあらゆる活動を常時監視されている感覚を持つ大衆だが、『良き人生の指標』として犯罪係数の数値を低く保って精神の色相を濁らせないことを人生の重要課題としており、実際にほとんどの犯罪を事前抑止し続けているシビュラに絶大な信頼と支持が寄せられている。
犯罪者になる蓋然性の高い悪しき心に染まろうとしている人間を、シビュラが早期に発見して早期に隔離するか排除(抹消)してくれる『犯罪のゼロリスク化』を目指すある種のユートピアであると同時に、『システムのエラー・その人物の精神の可塑性』によっては将来的にも無実である人間が一瞬で消滅させられる(あるいは既に人間が人工知能に完全管理された隷属的主体に貶められた)ディストピアでもある。
国家機関が管轄するシビュラシステムの人工知能は、実質的に近未来社会の『公平・完全な神』としてその目を光らせ続けていて、『シビュラの犬』である監視官・執行官がシステムの手足となって、社会に犯罪や無秩序、不安定をもたらす可能性のある犯罪係数の高まった潜在犯を事前に拘束・排除し続ける為に走り回っている。
主人公である新任監視官・常守朱(つねもりあかね)は、極めて低い犯罪係数の数値を維持しながらも、ストレスやショック、感情の乱れを受けても犯罪係数上昇の悪影響がほとんど見られない(どんな状況下においても悪しき心を持つリスクが極めて低い)、安定したサイコマティックを持つエリート監視官である。
常守朱の部下でパートナーになっている執行官・狡噛慎也(こうがみしんや)も、元々は有能で冷静な監視官であったが、シビュラ史上最も残酷な殺人事件とされる『標本事件』で部下の執行官を殺されて、犯罪係数が次第に悪化し執行官に降格された人物である。
『標本事件』の黒幕である槙島聖護(まきしましょうご)は、人間社会を中央集権的に管理統制するシビュラシステムに反旗を翻す反社会的パーソナリティーを持つ人物であり、潜在犯を洗脳してコントロールする異常犯罪・猟奇犯罪によってシビュラシステムの安定性や信頼性を破壊しようと企てている。
槙島は人を殺すことを何とも思わない冷酷な人間性だが、犯罪係数(サイコパス)が常に低く保たれていて色相の濁りをシステムで検知できない『免罪体質(特殊体質)』なので、シビュラと連携したドミネーターによって拘束・排除することが不可能である。
この免罪体質によって、常守朱はドミネーターで槙島に照準を合わせながらも、トリガーが安全装置でロックされ続け(旧世代の銃器を槙島から投げて寄越されるが自らの意志で槙島を撃ち殺す決断ができずに)、友人の女性を目の前で殺害される悲劇に見舞われた。
人工知能システムによる犯罪の事前抑止というテーマは、トム・クルーズの『マイノリティ・レポート』も思い起こさせられるが、犯罪をゼロにすることこそが正義(犯罪者は裁判を抜きにして即座に処分しても良い)という価値規範の面からは『デスノート』ともテーマが重なる部分があるかもしれない。
『デスノート』の夜神月はキラとしてデスノートの力で、死神リュークの代理者のように振る舞う。夜神月は不完全・有限である人間の身でありながら、『すべての犯罪を即時決裁できる神』になろうとする正義の妄執に捕われた。人が凶悪犯罪を起こせば、すぐに心臓麻痺で死ぬ事例(犯罪者の死の履歴)を延々と積み上げることで、『潜在犯(犯罪を企図する者)』を威嚇し続けようとした。
これは常に神(キラ)がどこかで悪事を見張っているという『人工的なパノプティコン(一望監視施設)』でもあったが、最大の弱点はいくら新世界の神を自称してもキラ本人は『不完全・有限かつ心の揺らぐ人間(自分に逆らって理想世界を壊そうとする犯罪者ではない相手の名前もデスノートに書きこみたいという誘惑に抗えなくなる人間)』に過ぎなかったことである。
『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムは、それを採用した国家機関の建前としては、主体(自分)としての感情・利害を持たずに客観的なサイコパス測定を行い、その人の犯罪係数に相応しい『社会防衛上の処遇』を即座に与える『非人格的な完全かつ永遠の管理システム』である。その完全な防犯システムを壊そうとしたり外れようとしたりする不完全な人間(人を傷つける疑わしい心理状態でないのならば犯罪係数をモニタリングされても構わないはずという権力・大衆の理由付けを踏まえ)というこそが、犯罪発生リスクを容認する“悪”と見なされてしまう。
サイコパスの測定と潜在犯の処遇の決定が無瑕疵(絶対に間違えない・間違えた前歴がゼロである)という前提が常に正しい限り、『犯罪発生ゼロの理想』にコミットする弱者たる大衆は、シビュラシステムが実現してくれる『潜在犯を外の社会に出さない完全管理社会』に賛同して支持することになる。
自由意志と決定論、自由とパターナリズム(保護してくれる支配原理)、正義実現(犯罪ゼロ化の理想)のために許される規制・犠牲の範囲などについて色々と考えさせられる作品である。
サイコパス測定やドミネーターのような空想的な科学技術はともかくとして、『PSYCHO-PASS』のような高度な人工知能システムが、社会活動場面の要所要所で人間の行動・判断・安全をサポートする名目で、実質的に管理・統制を強めるシステム管理社会が近い未来にやってくる可能性も小さくないのかもしれない。