母親の青木恵子元被告(51)と内縁の夫だった朴龍晧(ぼくたつひろ)元被告(49)は、1995年に大阪市東住吉区で小学6年生の青木めぐみさん(当時11歳)が焼死した民家火災で、放火・殺人罪などで無期懲役判決が確定していた。
しかし、本件を冤罪とする弁護団が『車庫燃焼の再現実験の結果』などの新証拠を出したことによって、再審開始支持の決定が出され、刑の執行停止(釈放)となっている。この事件では、有力な物的証拠・目撃情報はなく、捜査段階で強要されたという自白調書の信用性が疑われていた。
2人は公判で無罪を主張していたが、本人の自白は具体的であり信用性が高いとして1~2審では無期懲役の有罪判決、2006年には上告を棄却して最高裁で無期懲役が確定していた。既に20年の長期懲役刑に服しており、仮に冤罪であれば大阪府警・大阪地検の捜査手法の誤り及び見込み捜査の強行の責任は重い。
だが、本事件がこれだけ大きな冤罪の可能性を持っているにも関わらず、二人の被告人に殆ど同情・支援が集まっていないのは、『娘の青木めぐみさんに対する保険金殺人・性的虐待の疑惑』がかなり濃いという推測・予断が一般に広く共有されているからだろう。
二人の被告人の外貌・人相の印象(暴力団風のパンチパーマ・冷たい目つきなど逮捕時の写真の印象も含め)も余り好ましくないものを感じさせること、朴龍晧被告が在日韓国人(暴力団構成員あるいは前科・粗暴傾向などの反社会的傾向があったかは記事からは不明)であるという人種差別的な要素もあるだろう。
小学生の娘になぜ経済的余裕のない生活状況にありながら、1500万円もの生命保険を掛けていたのかについての合理的理由が述べられていないが、200万以上の借金がありながら、『まず普通は死ぬ可能性のない小学生』に生活費を更に切り詰めてでも安くはない掛け金をきちんと払い続けていたのはなぜか。
誰に保険金を掛けようが本人の自由といえば自由だが、元々小学生に生命保険を掛ける親は少ないだけでなく、常識的には借金を抱えた身で、保険金の入る見込みがまずない子供の生命保険料を無理をしてまで払い続ける合理的理由(生命保険以外の医療保険・損害賠償保険などが付属しているとしても)がない。
もう一つは、朴龍晧被告が自白したという義理の娘の青木めぐみさんへの性的虐待・強姦の疑惑があるため、『仮に放火殺人をしていないとしても、母子家庭に上がり込んできた卑劣な性犯罪者なのではないか(それならば強姦罪で起訴立件されていないとしてもそれなりの懲役刑を受けるだけの因果があり自業自得だろう)』という軽蔑・怒り・嫌悪などの大衆感情的な拒絶感が極めて強いことがある。
性的虐待・強姦の疑惑についても、放火殺人事件当時に性行為を強いられたという確実な物証(体液)は出ていないようだが、青木めぐみさんに犯行の前日か近い日にちに性交渉が行われたと推測される痕跡があったという解剖結果は出ているようなので、当時のめぐみさんに被告とは別の恋愛関係の事実・性交渉の相手が確認できなければ、朴龍晧被告が自供したこととも合わせて容疑が掛けられるのは避けがたいことではある。
テレビ報道では、『冤罪の可能性がある放火殺人事件』と『連れ子に対する義父による性的虐待の事件』とは別物の扱いであり、釈放されて老親と対面して喜んでいる場面で、そういった性的虐待の有無や義理の娘との関係性・劣情の有無などを問いただすわけにもいかなかったのは仕方ない。
だが、被告が性的虐待についても『謂れなき社会的制裁・名誉毀損・侮辱』と考えているのであれば、『過去の義理の娘との関係性・家庭生活の状況や娘への思い(適切な親子関係や愛情があったのかどうか)・性犯罪関連の前科の有無や考え方』などについて自らの口で説明することが望ましいのだろう。
弁護団と検察が行った『車庫燃焼の再現実験』では、狭い車庫内では気化して自分に引火してしまうので、被告が火傷をせずにガソリン7リットルを撒くこと自体が不可能であると結論づけられているが、もう一つの可能性としては再現実験のイメージ映像を見る限りでは、燃えた軽バンがかなりの旧式であったことから、『満タン以上の自然に漏れ出るだけの量のガソリン』をあらかじめ被告がギリギリまで継ぎ足していたのではないかとの疑いもあるのではないかと思う。
『風呂の種火』と『ガソリンが自然に漏れた軽バン』との位置関係は極めて近く、旧式の軽バンでガソリンを入れすぎると漏れるということを被告が事前に知っていれば、火災事故が起きた時点の軽バンのガソリンタンクが満タン(自動ストップしてから更に継ぎ足すあふれるくらいの満タン)であった可能性があるわけだが、燃えた時点のガソリン量、あるいは直前のガソリンスタンドでの給油履歴(購入履歴)については再調査できないのだろうかとは思う。
近代刑法に依拠する法治国家としては、『罪刑法定主義・立件主義』と『疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に)』を守らなければならず、立件された放火殺人事件については冤罪の可能性もあるのだろうが、社会的制裁・釈放を喜べない大衆感情としては『放火殺人をしていなくてもその人間性や生き方が小学生を性的虐待する卑劣なものだったり社会・他人に危害を加える反社会的なものだったのではないかとの付加的な疑惑』が大きく関係している。
その部分は、放火殺人事件の冤罪とは関係ないから、改めて証言したり説明したりする義務はないというのが弁護団の主張にはなるし、近代法の前提にも沿った裁定の仕方にもなるのだが、『法的に処罰されないこと・立件された罪状について無罪であることを確定すること』と『社会的に非難されないこと・犯罪と関連した人間性を揶揄されないこと』とは異なる次元にあるのだと、この事件の騒動を通じて考えさせられる。