ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:1

人間と動物を隔てるものとして旧石器時代後期(10万年以上前)に生まれたのが『死のタブー』であり、その具体的な現れとして『埋葬(葬儀)の慣習・死者への畏れ』が出現し、太古的な宗教感情の原点となった。自身と他者がいつかは必然に死にゆく存在であるという有限性の自覚、死ぬこと(=現世からの自我の消滅)が恐ろしいという感情は、人以外の動物には見られない。

人間は『死のタブー(死の自覚と禁忌・死の怖れと畏れ)』ゆえに、動物としての本能を薄められて、計画的な人生設計(死後の世界への夢想)を立てなければ不安で堪らないという呪縛に絡め取られた。『有限の生の意味と価値』を少しでも実感したいという儚い執着が、共同体(国家や民族)・宗教祭祀・子孫繁栄・進歩的世界観などの『観念的構想物による救済物語』を産み出していった。

文明社会や科学技術、経済成長が実現してきた快適さと豊かさ、新しさ、官能は『胡蝶の夢』のような刹那の喜びを私たちに与えてくれ、『いつかは無に帰すという宿命性』を忘れさせてくれながら、個人としての力感を回復させてくれる。私の人生や知性、感情はナンセンスなものではないのだというエンカレッジの呼びかけとなって。

『私が滅びた後にも“私の何か(子孫・作品・文明・国家・民族・思想・宗教など)”が永遠に続いていく』という信念によってニヒリズム(虚無)の暗渠を人類は飛び越えていき、本能を抑制する人間的理性によって『労働(生産的協働)』と『社会形成』を可能なものにした。人間の理性は原始・古代から中世、近代から現代にかけて留まる事なく伸長してきたが、理性は人間集団の本質を『本能の禁止』と『労働(生産)の規範』に導いていき、禁止される本能とは直截に『死(暴力)』と『性(生理的快楽)』を意味していた。

独創的な啓蒙思想家のジョルジュ・バタイユは、人類にとっての労働の本質とは、『即時的・刹那的な利益(快楽)の生産的な延長』だと定義したが、すぐに暴力で奪い取らずすぐに(類人猿のように)誰とでも性行為で快楽を得ないことが、ホモ・サピエンス・サピエンス(知恵ある人)の『労働による社会進歩の可能性』を生み出したのである。

労働(知識・技能の習得)に専念する人間は、『即時的な欲望充足の禁止(今さえ良ければ良いの禁止)』によって暴力的・一時的な本能を抑圧することができ、動物にはできない人間ならではの『今日の快楽を放棄した将来の収穫に期待する農耕・牧畜』を始めることができるようになった。労働は自分の生活を豊かにして社会の秩序を固める効果を発揮したが、それと同時に労働の成果を無に帰す怖れのある『暴力・死』をタブー化していった。

自己と目の前の死体を内的体験として重ね合わせる時に、先史時代の人類は自分や仲間の行き着く先(どうしても人為では克服できない死の結末)を見て恐怖し、『死の運命・死体の怨念(祟り)』を軽減緩和するためにさまざまな宗教の物語と祭祀の方法、墳墓の構造(権力者は特に死後の世界を夢想して自分の権勢や財力を死後に持っていくための仕掛けを墳墓内に施した)を発案していった。死体の腐敗は、原始人たちにとって『忌まわしいものの伝染の恐怖』を味あわせたと推測され、死体の白骨化は『死の持つ暴力性(人間を飲み込む運命)の効力』が鎮静化した証だと受け取られただろう。

労働(協働)は原始の共同体を暴力と乱交(無秩序な性)から引き離したが、『労働の時間外・共同体の外部にいる人間』に対しては暴力(武力)の禁止が完全に行われているわけではないことは、先史時代から数十万年後の現代の人類においても変わっておらず、『戦争・暴力の禁止』は理性・労働によって共同体を構築してきた人類にとって終わりなき課題へのチャレンジのようなものである。