映画『エベレスト 3D』の感想

総合評価92点/100点

標高8,848メートルのエベレスト(チョモランマ,サガルマータ)は、誰もが知っているヒマラヤ山脈の世界最高峰である。映画『エベレスト 3D』の冒頭では、登山家のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによるエベレスト初登頂(1953年)から、エベレストの固定ロープを配置するルート開拓、登山ガイドが引率する商業登山の歴史などが紐解かれる。

この映画の題材になっているのは、ニュージーランド(英国連邦)の英雄的な登山家ロブ・ホールが率いた商業登山の公募隊が11名の死者を出した『1996年のエベレスト大量遭難事故(エベレスト登山史で最大の死者を出した事故)』である。

ロブ・ホールは29歳で七大陸最高峰登頂の最年少記録を樹立した超人的な登山家であり、8000m峰で最も難易度(死亡率)が高いとされるK2にも登頂している。ローツェ、チョ・オユー、マカルー、ダウラギリなど8000m峰の多くに登頂経験があり、当時もっとも8000m峰の登山のリスク判断に詳しい人物の一人であった。

山岳医である妻のジャンや大勢の登山客(実質登山家レベルの客)とも一緒にエベレストに登った経験があり、登山家として自分自身がぐいぐい登れるというだけではなく、大勢の顧客(他者)を安全に引率してそれぞれの体調・状態に配慮した慎重なガイドができる登山ガイドとしても評価されていた。

この映画は『3D版』しか公開されていなかったが、ネパールの整備されていない煩雑な街並み、富士山より高い標高5000m以上にあるチベット仏教寺院、高所恐怖症の人は絶対に渡れそうにないむちゃくちゃな高さのある長い吊り橋などから始まり、『深いクレバスにかけられたハシゴの横断』や『エベレストの垂直に近いような斜面の登攀』、『一歩踏み外せば即死する尾根・絶壁の狭いステップ(踏み場)』などスリルと緊張感が溢れる美しい映像世界を3Dで立体的に楽しむことができる。

自分自身でヒマラヤ山脈を筆頭とする世界の高峰に登れる人(登りたいという人)はほとんどいないが、エベレストやK2、ダウラギリなどの高山(標高問わず世界にある名だたる高い山)は写真・映像で見るだけでも、その容易に人を寄せ付けない荘厳な存在感、雪・岩をまとって天に屹立する美しさに圧倒され魅了される。エベレストは遠くから俯瞰で見れば美しく、生身で近づけば恐ろしいとも言えるが、エベレスト登山を疑似体験できるような映画の作りやカメラワークの視点が巧みである。

ロブ・ホールが率いる公募隊とは別のスコット・フィッシャーの公募隊が行動を共にして協力するのだが、このロブとも懇意なスコット・フィッシャーも経験豊富な実力・体力のある登山家である。だがスコットは高山病で体調不良になった顧客をベースキャンプまで連れ添って下ろし、再び通常よりかなり早い速度で登り返してきて登頂するという常軌を逸した無理な強行軍をした。

エベレスト頂上に到着した時点でスコットは歩けないほどの極度の疲労に陥っており、下山の途中で行動不能になってそのまま死亡してしまうのだが、スコットはそれまでの多くの登山歴から自分の体力・体調について(いくら長距離を強行軍しても行動不能にまではならないと)過信していたことが仇になった。

映画では、豪放磊落な自己責任論者としてスコットは描かれ、ロブに対して『お前は客に対して親切過ぎるが(登れない奴でも何とか登らせてあげようとするが)、俺は登山というものは登れる奴だけが登れればいいと考えている』と嘯くのだが、実際は連れていった登山客を安全に下山させる責任感の強さ(高い地点から再びBCまで一緒に下りてあげたこと)に命を奪われる恰好になった。

登山家の著作では高山登山に当たっては『高度順応』に成功するか否かが極めて重要だということが繰り返し説かれるが、5000m以上のような極端な高山では『高度順応が体質的に苦手な人・高山病になりやすい人』が無理して登って肺水腫・脳浮腫などで死ぬケースが多い。

登山家としての適性の一つは非常に高い高度でも気分が悪くなりにくい、体調を維持しやすいということで、登山ガイドのロブにしてもスコットにしても高度順応を上手くこなして体調を管理しているが、スコットは登る前から『腹の調子が悪い』としきりにこぼしていて本調子でないことを匂わせていた。

1ヶ月近い滞在をしても客の中には順応できずにいつもよりも悪い体調のまま登って引き返した者が多かったが、相当な高所滞在の経験がある登山家のスコットでも体調がいまいちになることがあるように、高度順応が順調に進まないこと(どこかしら何となくでも気分・体調・呼吸や消化の状態などが悪いこと)によってリスクは格段に高くなる。体質的・遺伝的に、高度の高い場所に対して向き不向きがあるようにも思う。

映画『エベレスト 3D』では、エベレストの商業登山(ガイド登山)につきまとうリスクとして三点を強調して取り上げていた。

『頂上近くの難所での渋滞問題(列の前の人を待つ停滞時間の長さによる体力消耗)』『下山開始の時間厳守の重要性(ロブが午後2時までには下山開始すべきという原則を破ったことによる遭難)』『顧客の体力・技術・経験・体調のばらつき+体調不良者をどこで下山させるかの判断の難しさ(無酸素登頂などハイリスク条件を希望してくる顧客の危うさ)』である。

究極のリスクは、雪崩・足場崩落とベースキャンプ(BC)から離れた高所での天候悪化(長時間の停滞)であり、『雪崩に巻き込まれる・足場が崩れる・極端な天候悪化(ブリザード,ホワイトアウト)に見舞われる・長時間停滞で低体温症になる』といった条件下では、多くの登山者は遭難死する運命を免れることができない。
航空機の飛行高度よりも高いエベレストのような高山の頂上付近(8000メートル以上)は、基本的に人間(生命)の生存を許さない『デスゾーン(死の領域)』であり、デスゾーンに踏み込むことのできる時間・好機(好天)は極めて限られている。

どんなに体力・技術・経験のある登山家でもデスゾーンに留まることのできる時間は限られており、天候悪化・時間オーバーなど悪条件がいくつか重なればどんな登山家でもあっけなく死んでしまう厳しい現実が映画でも描かれている。

フィクションの登山映画であれば、主人公の超人的な登山家ロブ・ホールは遭難しても何とか生還する設定にしたいところだが、デスゾーンでテントもなく悪天候(マイナス20度以下)の中で一晩を過ごせば低体温症・手足の凍傷でまともに動ける運動能力を維持できず、よほど運良く救助隊が来ない限りは死ぬしかない。

酸素濃度が低く安定飛行できないヒマラヤの高所にはヘリコプターも飛ばせないので、人力の救助隊が行くしかないが、遭難するような悪天候になると数週間は山頂に近づけないことも多いという。登頂可能とされるシーズンや時間帯、天気、ルートを外れれば生きるか死ぬかは個人の力を超えた絶望的なギャンブル(大半は死ぬだけの結果)でしかなく、スコットがいうように高山登山での生死は(助けたくても誰も助けにいけないケースのほうが多い意味でも)自己責任である。

『死の領域である超高所』に開けるわずかなチャンス(シーズンの日中の好天)を見出し、素早く登って下りなければならない登山形態なのだが、ロブ・ホールが死に追い込まれた直接の原因は、去年も自分の公募隊に応募してきて頂上直前で撤退を余儀なくされたダグ・ハンセンの『午後4時過ぎの遅すぎる登頂』につきあったことであった。

客観的には、ダグ・ハンセンは高所順応の苦手さや体力不足により、エベレスト登頂をするだけの実力がなかったとも言える。ふらふらになりながらも頂上直前のバルコニーまで何とかやってきたダグにロブは『時間切れだから下山しよう』と何度か呼びかけるが、『これが人生で最後のエベレスト登頂のチャンスだから、一人でも行かせてくれ(子供・学校のみんながカンパしてまで送り出してくれた気持ちに何とかして応えたい)』というダグを見捨てることができずに付き合ってしまう。
時間切れでビバークしても天候悪化がなければ生還できた可能性もあるが、映画の中ではダグ・ハンセンは遭難に責任を感じていたのだろうか、戻ってくるから待っていろというロブを前に見ながら、身体を確保していたロープを自分で外して絶壁から無気力に転落していった。

田部井淳子に続く日本人女性として2人目のエベレスト登頂者、更に七大陸最高峰登頂者として知られる難波康子(なんばやすこ)さんもこのエベレスト遭難事故で命を落としているが、七大陸最高峰の最後の一峰であるエベレストで遭難死するというのも不条理な運命を感じさせるものである。

難波さんも悪天候による低体温症・歩行能力の喪失によって死亡したことになるが、六大陸の最高峰に登頂していた難波さんがそれなりに早めに下りた下山グループに入っていても亡くなったことから、当時の気象条件の厳しさ(映画の作中でも異常な寒さでもう耐えられないとして早期に撤退して助かったメンバーも描かれている)が伝わってくる。

遭難の原因の一つは、人数が多かったことによる渋滞(時間浪費)もあるが、『バルコニー』と『ヒラリー・ステップ』という絶壁の難所のルート工作が行われておらず、その場で固定ロープの設置を行ったために1時間以上も停滞したことがある。ガイドとシェルパが初めに予定していたルート工作と酸素ボンベの準備を十分にできていなかったことが(地点に置いていた酸素ボンベの多くに残量がなく使いものにならなかったことが)、その後の遭難時にじわじわと生存率を低下させる原因を作った。

ロブ・ホールと出産間近の妻ジャン・アーノルドとの無線通信の場面、家族(高山登山に反対の妻)に黙ってエベレスト登山に申し込んでいた医師ベック・ウェザーズの不安・地上での鬱屈など、『登山家の冒険心と家族・人間関係』も映画のテーマとして随所に織り込まれているが、『安定した地上での職業・家族・暮らしがあってもなぜ彼・彼女は危険なエベレストに登らずにはいられなかったのか』についても考えさせられる内容になっている。

裕福な病理学医のベック・ウェザーズは、難波康子らと同じ場所で遭難して意識を失っていたが、ブリザードの吹きさらしに耐える強靭な生命力によって奇跡的に一命を取り留める。視覚の異常が起こったため、結局エベレスト登頂の夢は叶わなかったが、このベックをすぐに下山させなかったのはロブの判断ミスだったかもしれない。カネを惜しまずとにかく夫を救助して欲しいとの妻の要請・米国大使館への働きかけ等もあって、ヘリによる満身創痍のベックの救助が行われたが、両手と鼻を凍傷で失う大きな代償を支払った。

まだみんなが元気な時にベースキャンプで、『なぜ死ぬような思いをしてまでエベレストに登るのか』という質問が出されたのだが、その時のベックの『地上にいるといつも頭が真っ黒な雲に覆われているような感じがあるが、高い山に登った時だけその黒い雲が一気に吹き飛ばされて爽快な気分になれるんだ』という答えは印象的だった。

エベレストの商業登山の公募に応じるようなセミプロの登山家の多くは、医師・弁護士・経営者・パイロットなど地上の経済的生活でそれなりに成功している人が多く(そもそもエベレストに公募登山で登るためには最低5~7万ドルくらいの経費がかかるので普通の人は経済的に難しいこともある)、そんな死ぬような思いをして危険な登山をしなくてもそれなりに豊かに楽しく地上で暮らせる人たちなのだが、人間の自己実現・挑戦欲求は『安全・便利で快適・安楽な毎日の繰り返し』だけでは飽き足らない本性・知性を内包している現れでもあるのだろう。

エベレストとかマッターホルンとかの特別な高峰(高度な技術・体力・覚悟が必要なハイリスクな登山)は例外であるとしても、登山を趣味とする人にはどこか思索的・教養文化的な雰囲気のある人や何かを特定の世界観の図式を元にして深く突き詰めて考えるのが好きなタイプの人が多い。

逆に言えば、『物事の損得・行動のリスク・きついか楽か』だけに注目するような人(世界・自然と人間・自分との身体感覚ベースの相互関係の図式を持たない人)だと、登山はただきついだけ危ないだけで何が面白いのか分からない無駄な営みとして映りやすい。

登山はこの映画『エベレスト 3D』も含めて、『書籍・紀行・伝記・地図などの知識や物語性』と自分とを重ね合わせながら実際に計画・行動・体験してみることによって面白さが増す所もある。

『なぜ人は山に登るのか?なぜ人は安全で快適なだけでは満足できなくなるのか?』という問いは、自我(私)を持つ人間にとって『なぜ明らかな目的や意味がなくても人は生きるのか?何もしなくても良いと言われても何かを為さずにはいられないのか?』という普遍的な問いの変形でもあるのだろう。

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