外見を巡る女性議員の不満が色々と書かれているが、“地盤・看板・カバン”のない無名の若手の女性立候補者であれば、『外見の良さ(必ずしも特別な美人である必要はなく清潔感・爽やかさ・フレッシュさ・真面目そうな雰囲気があればいい)』が、議員に当選するための強力なアドバンテージになるのは厳然たる事実としてあるだろう。
なぜ実力・知見ではなくて容姿・外見をメインにして選ぶのか、どうして中身をよく見ずに外見の印象だけで適当に選ぶのかという反論は、国・地域の代表者を選ぶ代議制の政治システムが不真面目に運用されているのではないか(美人投票という衆愚政治に堕落したのではないか)という不満・不安に行き着く。
だがよくよく考えてみれば、私たち有権者は『政治家の中身を査定する情報・基準』をほとんど持ち合わせておらず、更に『政治家個人としての力量・信念・可能性を評価するために何を参考にすれば良いのか』ということについてもよく分からないというのが実情なのである。
『立候補者の演説している内容・政党の有力者の語る推薦理由』を聞いたり、『立候補者のウェブサイトに書かれている政策方針・学歴や職業キャリア・思想信条』を読んだりして、容姿の美醜なんかの表層的情報に左右されず、その立候補者が国会議員・地方議員として適任かどうかを公平に判断すべきというのはなるほど正論である。
しかし、仮にも政党から公認されて議員に立候補する人が『むちゃくちゃな思想信条の表明・人格や価値観を疑われる自己主張』などするわけもなく、演説や文章の内容を細かく精査しても『所属する政党のマニフェストの範囲内で無難なことが書いてある・社会や未来や子供や外交のことなどを色々真剣に考えてくれていそうだ(真剣に考えていない、世の中なんてどうでもいいという姿勢をアピールする候補者などまずいない)』としか言いようがない。
自民党や公明党、民主党、共産党などの政策マニフェストを支持している人なら、その政党が公認している容姿の良い人であれば『人間性も政治判断も良さそうで自分はどうせ○○党を支持しているから、外見の雰囲気も良くて誠実そうな人』としか映らないことになるし、特別な支持政党がなくてミーハーな人なら『実際に街頭でばったり会った美人候補者から笑顔でがっちり握手されて、一生懸命頑張る姿勢を必死にアピールされた』だけで投票してしまうかもしれない。
社会人経験も厳しく問われない若手の新人候補であれば更に『容姿の第一印象が占めるウェイト』は大きくなり、逆に政治の世界にどっぷり浸かっていない初々しさが『既得権益・海千山千の人脈からの距離感のイメージ』で歓迎されるが、政党公認を受けている限り、新人議員が党議拘束に逆らうことはまずないので誰がなっても同じといえば同じ側面(党の数増やしの側面)は強い。
小泉チルドレンとか小沢ガールズとか安倍チルドレンとかいろんな新人議員が現れては消えていったが、これらは外見だけで選ばれたわけではないが、『個人の中身よりも誰に忠誠心を持って付いていくのか(誰の政策理念を実現しやすくするために数の力になるのか)』という本人の力量や可能性とは無関係な部分で、大量の票が投じられた好例だろう。
民間企業でも『顔採用』というのが取りざたされることがあるが、本当に外見が良いだけで採用される仕事というのは『非専門職・非キャリア職(短期間で代替要員を育成できる受付・販売・事務等)』が多く、誰でもできるわけではない専門的な知識・技術・ノウハウや組織管理の手法が必要な仕事になると、さすがに外見が良いというだけで採用されるケースはまずない。
近代社会の成熟と共に『政治の無関心』が生まれて、『誰が政治家になっても同じという選別基準の放棄』も進んだが、『容姿の良い人のほうが当選しやすい選挙』というのは、正にどこの政党が公認しているか、誰の影響力・推薦を受けているかのほうが大事という『立候補者個人の中身への無関心』の現れでもあるのだろう。
衆愚政治といえば衆愚政治なのだが、『外見よりも中身が大切』という本質論も分かるが、美人な人もそれなりの学歴・職歴があってまっとうな政治信条を語っているのだからそれ以外の人を選びたくなる合理的な理由が見当たりにくいという意見にも一理ある。
『政治家としての能力・適性・可能性を判断する客観的指標』というものが『当選回数の多い政治家の実績・専門分野・各方面への影響力』以外にほとんどない(特に若手の新人の場合には前職からの人脈・影響力もはじめから無いので)ということでもある。
また今よりも昔のほうが『候補者の中身を見た選挙』が行われていたかというとそうでもないだろう。ただ『外見・容姿』を重視しなかったというだけで、『家柄・旧制身分・財力・権威・官僚とのパイプ』などを基準にして投票が行われ、地域利権を拡大してくれそうな立候補者を世襲・コネ・身分意識で支持していたケースが殆どだった。
昔は昔で『中身がある個人』よりも『先祖代々有力な家系に連なる者』が選ばれやすく、階層的な一般庶民が政治家になるケースは今よりも少なかったわけだが、この時代においても『誰が政治家として有能か成長しそうかを査定する基準』が父親・祖父の代から政治家・官僚を務めてきた家系の人のほうが政治に通じているはず(どこの馬の骨か分からない庶民よりも信用できる)という基準しかなかった。
『誰が政治家になっても同じ(どうせ政党の党議拘束を受ける・日本は官僚が法案を作成する官僚政治である)』と思う心理や確信が強まるほど、『表層的な容姿・外見』を基準とした投票行動が多くなると予測される。
こういったビジュアリティ重視の先進国の風潮は、『自動化・機械化されるテクノロジー社会(大多数の人間個人の能力に強く期待しなくなるシステム化社会)』が本格的に始まる前触れという見方もできる。
『何を考えていてどのような人間性でその人に何ができるかという個人の中身』が重視される社会というのは、少し前の重化学工業が中心だった産業社会(工業社会)のように、生身の人間が汗水流して働くこと自体に高い価値が置かれて大勢の人に評価される社会である。
翻ってそういった中身があまり重視されず(分かりやすい人間の肉体労働の報酬が下落し)、特別に何かしなくても美しければ良いという外見・容姿のウェイトが高まる社会というのは、直感的には『退廃的・享楽的な努力を軽んじる軽佻浮薄な社会変動』という文明劣化の危機感を煽るのだが……その一方で『人工知能・ロボットの進歩でマンパワー依存度が下がる管理社会(多くの人が自分の中身・能力を発揮したくても並の能力では発揮できる場そのものが失われる享楽・耽美の大量失業社会)』のビジョンが見え隠れするような感覚(一歩間違えれば先進国全体が地盤沈下するリスクを孕む人間ではないシステムへの依存度上昇・大勢の平均的な人のマンパワーが要らなくなる自動化された産業社会)もある。