ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム論』から“人間の性・死(暴力)・労働の本質”を読み解く:2

暴力と無秩序な性は、今日(今すぐ)ではない明日の収穫(快楽)に期待する生産的労働によって生存を維持する共同体の存続を危うくするが、『労働・協働の時間』は原始の人類の意識と関心を『動物的な暴力・性』から次第に引き離していったのかもしれない。あるいは動物的な暴力・性ばかりに明け暮れて労働に関心を持てなかった原始共同体(非生産的・本能従属的な部族)は、他の生産的で協力的な共同体から討ち滅ぼされて絶滅への道をたどっただろう。

この記事は、『前回のバタイユ関連の記事』の続きになっています。

十分な理性と自己規律(自律性)を備え始めた近代以降の教育を受けた人間は、『労働抜きの暴力の禁止』を受け入れ始めた。だが、近代以前には『小人閑居して不善を為す・働かざる者食うべからず』といった宗教的格言が示すように、『直接的・即時的な欲望を自制できない(教養・倫理・自尊の軛が不十分な教育や哲学的陶冶を受けていない)個人』に対しては、労働(その多くは思考力を奪う単純肉体労働)によって本能の欲望を遷延させたり時間的余裕を制約したりするブレーキ(労働で疲れることにより時間・欲望の余剰を暴力に転換できなくする生活リズム)が必要だったのである。

暴力と性の本能のすべてがなくなったわけではないが、ホモ・サピエンス・サピエンスとは『本能を部分的に破壊した特殊な動物』としての側面を持っている。ジョルジュ・バタイユや日本文化(個人体験)に対応する精神分析を研究した岸田秀は、妊娠出産を目的としない性行為のほうが主流となった人間を『本能が壊れた動物』として再定義し、エロティシズムについても『動物的・本能的な子作りにつながる性』から遠ざかれば遠ざかるほどに、人間は性的に興奮する特殊な性癖を獲得したという持論を展開した。

バタイユはエロティシズムの本質は『禁止と侵犯』にあるとして、『性(誕生)と死の類縁性』を指摘した。『禁止・禁忌』はそれを破った後にある背徳的な快楽や社会超越的(全能的)な栄光と裏表の関係にある。人間にとっての性行為も『禁止(わいせつ・羞恥・性道徳・動物的堕落の嫌悪など)に対する侵犯』によって興奮する仕組みを持ち、『あからさまな解放・制限や選り好みのない性(いつでも自由に行為ができるという日常性・秩序性)』はエロティシズムの魔術的な魅力を失わせてしまうという。

人間は理性・労働・倫理によって『動物との境界線』を強く引いているのだが、それでも根底的な『本能の世界にある暴力』をゼロにすることはできず、先進国でも喧嘩(傷害事件)や殺人、強盗、男女トラブル(無理心中・別れ話のトラブル・ストーカー犯罪)などは発生し続ける。

浮気・不倫や別れ話、痴話喧嘩などの『男女関係のトラブル』によって起こる殺傷事件のニュースは、現代ではスキャンダラスなゴシップや自立心のない弱い個人の錯乱行為(性欲過剰・孤立感・執着心・未練がましさによる人生の破滅)として、一過性の娯楽のように消費されていく。

だが、恋愛は本来『マニア(狂気的・非日常的)』なものであり、古代社会や未開社会の時代から『恋愛の破滅(恋人の裏切り・別離宣告)』が『恋人への悪意・殺意』に転換する型の悲劇は繰り返されてきた。現代社会においても『お前がいないと生きていけない・別れたら生きている意味がない・他に男(女)を作ったら自分を抑える自信がない』というような依存的・憎悪転換的な言辞を語る人の恋愛には、恋愛が破滅した時に何をするか分からない(自分自身が自殺することも含め)という狂気の影が見え隠れしている。

しかし、人によっては恋愛の盛り上がっている時期に『あなたがいないと生きていけない、一人だけになると生きている意味がない、あなたを自分のものだけにしたい』といった言葉を『誠実で忠実な恋愛感情の現れ』として肯定的に受け取ることがあるのもまた事実である。その種の言葉は特別に執着心の強い依存的な人でなければ発さないわけではないし、恋愛が上手くいっていたり相手のことが好きだったりすれば『好意的な解釈』によって受け入れられやすく、反対に恋愛が破綻したり相手のことが嫌いになってくれば『粘着質で恐ろしいもの(離れてくれない不愉快なもの)』に感じられるものでもある。