なぜイスラム教徒(+キリシタン・白人のムスリムへの改宗者)は増えるのか?

イスラム教は現在のペースで信者数を増やしていくと、2070年にはキリスト教の信者数を追い越して、『世界最大の宗教勢力』へ拡大すると見られている。ムスリムの人口は現時点でも16~17億人以上はいて、この人口は今後増えることはあっても減ることはまずなく、毎年数百万人の単位で増えていくと予測されている。

なぜ増える? イスラム教への改宗

日本人にとってイスラーム(イスラム教)は、もっとも馴染みが薄い世界宗教であり、イスラームは日本人一般が宗教アレルギーを感じやすい“規律的・強制的な宗教”としての特徴を多く備えている。

仏教の戒律でさえ、天台宗の円頓戒や浄土門の解釈で無効化してきた日本人は、宗教的な細々とした行為規範が日常生活の内部に入ってくることを嫌う傾向がある。
イスラームというのは『信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼』など五行の義務の強制力が強く、集団主義的な同調圧力や宗教的な罰則がある点でも、現代の先進国の人々には一般的には受け容れられにくい。

では、なぜムスリムの人口は拡大し続けるのか。記事にもあるが、その原因は主に以下のようなものである。

1.イスラム教徒の女性合計特殊出生率の高さ+先進国の出生率の低さ

2.イスラーム圏の若者人口比率の高さ+先進国の超高齢化の進展

3.非ムスリム、特に先進国(自由主義圏・資本主義圏)からの改宗者の増加

なぜイスラム教徒の出生率は高いのか。紛争地帯・治安悪化地域が多く、平均的に教育水準が低くて、『結婚・出産』以外の女性の人生の選択肢が殆どないからである。

伝統的な部族共同体のルールや性別役割分担のジェンダーから、女性が『自己決定権・自己選択権』を理由にして、結婚しない産まない(子供は○人で良い)といった選択をすることが難しく、また高等教育前後のモラトリアムもないので一定の年齢で大半が部族の義務として早くに結婚する。

家父長制に基づく家族制度で『男=夫・父の権限』は先進国とは比較にならないくらいに強く、女性は基本的には家(父)に付属する財物としての認識に近く、自分がどうするかを自分で決める『自由な個人』という自己規定そのものが男でも女でも成り立たない。部族(血族集団)や家(男の庇護)から切り離された女性は、生きていくことが不可能か極めて困難な状況にある。

現在でも部族・父親の権威に基づいて、(先進国では)未成年の幼い年齢での相手を選べない『取り決め婚(そもそも自由恋愛市場そのものがなく結婚できる相手の範囲・身分も限定的)』も多い。

イスラーム圏の多くは『多産多死』で平均寿命も短いから、高齢者の数は少なく若者の人口比率が高くなるので、良い意味でも悪い意味でも『社会に蓄積しているエネルギー量』が巨大である。

そのエネルギーは、イスラーム圏の信仰生活・部族慣習の保守に投入される。あるいは、イスラーム圏の伝統的な信仰生活や共同体的な秩序を破壊しようとしていると警戒する『欧米主導(キリスト教自由主義圏・人権思想)の世界秩序・資本主義の市場組み入れへの対抗力』として攻撃的な様相を帯びやすいのだ。

欧米主導の近代化・市場主義によって、私たちは『自由・平等で豊かな個人』になったという“物語的・思想的な擬制”を信じていて、先進国に生きる私たちは基本的人権が保障された『何者にも理不尽な行為や罰を強制されない自由な主体(近代的な個人)』であるということに自尊心や自己価値の根拠を置いている。

イスラーム圏というのは、先進国の一般国民にとっては『宗教的な迷信・規則・価値に固執して欧米的価値(自由民主主義)に抵抗を続ける厄介な地域=近代化と世俗化が不十分な未開地域・後進地域』という定義づけをされやすい。

だが、先進国が無知だとか野蛮だとか軽視していたイスラームの一員に敢えてなりたい(先進国・キリスト教圏の一員であることをやめたい)という、イギリスやアメリカ、フランスの若者が増えているというのは、大きなショックではある。

だが、『現代社会における一般庶民の幸福実感度の低下傾向』を考えれば、まったく分からない心境でもない(現代の先進国で自己アイデンティティが確立できなかったり、社会経済的な苦境・屈辱・孤独で苦しんでいる若者も多くいて、近代化がもたらすとされた幸福や自由選択の価値が信じられなくなった)というのも正直な感想としてあるかもしれない。

日本は幕末の動乱期をくぐり抜け、戊辰戦争・明治維新で『近代化・世俗化』を概ね成し遂げたが、その時に日本人は月代(ちょんまげ)と和服・着物・刀を捨てて、髪を剃らずに伸ばすようになり、動きやすい洋服(スーツ)を着るようになった、まずは外見から欧米を模範として自己変革していったのだ。

しかしイスラーム圏は今でもなお、欧米や日本のような服飾文化を全面的に採用しておらず、ひと目でムスリムだと分かるアラブ・ローブをまとったり女性はブルカやヘジャブで顔・髪・肌を隠したりしている。ムスリムの先進国における異質性の分かりやすい理由の一つは、先進国の人たちと同じような外見や服装をしない(日本人のようにちょんまげや着物を捨てない・機能性や先進性を二の次にする)ということなのである。

イスラーム圏には『欧米人と同じような先進的な近代人になりたい』という自己アイデンティティの変革の動機づけが殆どない、宗教が生活に深く浸透している今のままで良い(経済・カネ・思想上の綺麗事が中心の欧米みたいな社会はごめんであり堕落である)というムスリムが圧倒的に多いのである。

だから、いくら戦争で反欧米の国家・武装集団を打ち負かしても、日本のようにその自己アイデンティティやライフスタイルまで欧米化・近代化させて価値観を近しいものに変えていくことができないのだ。

ムスリムは欧米や日本の人たちが着ている服装・髪型を真似しないしヒゲも剃らない、酒もポルノも流通しない、それは日本とは比較にならないほどにイスラーム圏は『前近代的・宗教的な規範』が強くて、それから逸脱した“欧米かぶれ・世俗主義の価値観”になりすぎることの社会的デメリット・差別待遇が大きいということなのである。

中東イスラーム圏の戦争・紛争が決定的に終わるとすれば『ムスリムの世俗化』が十分に進んだ時(人々が資本主義的・自由主義的なライフスタイルにどっぷり浸かって他人を宗教で統御しようとする意識そのものをなくした時)であるが、残念ながら欧米諸国はイスラーム圏の人たちの自己規定・信仰生活を揺さぶるほどの魅力ある近代化のビジョンを呈示できていないのである。

9.11以降、世界の歴史的秩序を実力と啓蒙思想によって構築してきたアメリカや西欧の先進国において、逆に『先進国の自由主義・資本主義・個人主義』よりも『イスラーム(イスラム教)の信仰生活・素朴な相互扶助・共同体主義』のほうが価値があるという人が出てきて、モノと欲望の世俗主義を捨てて、ストイックで真面目なイスラームに帰依したいという若者が増えてきたのだという。

『個人の自由』を自ら放棄して『権威者(超越者)のビジョン』に従属することで、生きる意味や安寧を実感できるようになるという心理は、エーリッヒ・フロムがナチスに傾倒する大衆心理を精神分析した『自由からの逃走』でも解明されている。

人は自由選択や自己責任の限界・不安に直面した時に、無条件に従属できる権威者や自分の生きるべき正しい道を示してくれる超越者を求める傾向がある。

『先進国におけるイスラームへの改宗』も、自分はどのように生きれば良いのか、何が正しくて何が間違っているのかに迷い続けてきた人が、『個人の功利主義(損得・快楽)』を超えた『普遍的・宗教的な世界観や教義・戒律』によって、自分を正しく導いて欲しいという『生きる意味の空虚と渇望の現れ』として解釈できるだろう。

『近代化・世俗主義からのバックラッシュ(自由な個人として自己責任を負うことの虚しさや苦しみ)』が、現代でもなお十分に世俗化されていない『救済型宗教』であるイスラームへの帰依・憧れを刺激している。

つまりは、『カネ・モノ・セックスなどに左右されない普遍的な生きる意味』に飢えた人(それは先進国における苛烈な競争原理の敗者や被差別者も含めたもので自由主義・個人主義・資本主義に対してむしろルサンチマンや無価値さを抱いているものでもある)を、イスラームは世俗主義の先進国にはない『規律的・禁欲的な教義体系と生活様式(個人がバラバラに私欲を追求する享楽的な先進国よりも真面目・秩序的でストイックに見えるムスリムの素朴な生き方)』で引きつけるのである。

現代の先進資本主義国では、経済格差が拡大して社会階層が身分制のような形で分化しており、道徳的・文化的にも行き詰まりを感じる人が増えているが、そのことが『自由選択・自己決定によるメリットの無さ(所与の格差を無視した自己責任の理不尽さ)の感覚』につながりやすくなっている。

いくら自由な主体や政治的な主権者として『個人で生きる権利』が保障されているといっても、『格差・貧困・階層分化・孤独』などによって、その自由や市場を自分のために十分に活用することができない人がどんどん増えていることが改宗者増加の背景にはある。

『自由民主主義・人権思想・資本主義』などに対する一般庶民の評価や信用が低下しやすくなり、一部の人たちの利権や享楽(浮かれ騒ぎ)を守るために表面的な綺麗事が唱えられているだけなのではないかという現行の欧米主導の世界秩序や享楽主義への懐疑が、先進国のライフスタイルや価値観よりもストイックで真面目・規律的に見えるイスラームに誘惑されやすい心理状態を作るとも言える。

世俗主義の先進国は個人で他人に干渉されずに自由に楽しくやっていける理想郷(個人が自己実現を目指して選択・競争しながらそれぞれの道を生きていく理想郷)を描いたが、現代では『自由を活用して得られる幸福・喜び』が落ち込みやすくなってしまった。

宗教主義のイスラーム圏はムスリム共同体の一員として規律・慣習を守って生きていけば救われる前近代的な理想郷(ムスリム同士で相互扶助して秩序正しく生きていくみんなで同じ信仰の道を歩んでいく理想郷)を描くことで、『カネ・モノ・セックスを巡る個人主義的・快楽主義的な競争』に敗れたり疲れたりした人たちを引き付けるのである。

新興宗教に影響される人と同じく、先進国でイスラームにはまってしまう人もまた、人並み以上に繊細な感受性や生真面目な価値観を持っている人が多く、『今までの自分の生き方・社会のあり方を急転換させる新たな世界観の呈示』に心を激しく揺さぶられて、宗教的な自己アイデンティティの再構築へと突き進んでいくのである。

『精神的・普遍的な価値追求(生きる意味の探求)』の結果として、『享楽主義の先進国』よりも『禁欲主義のイスラーム』のほうがより普遍的な価値があるのではないか(カネ・モノ・異性の欲望に振り回されて他人を助けない人の多い堕落した資本主義より、思い込みであっても貧しくても神の教えを忠実に守って肩寄せ合って生きるムスリムのほうが人間の生き方として誠実・潔癖で正しいのではないか)と思いやすいということだろう。

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