古代では『暦』は『吉凶占い・運勢』とセットだった。六曜も暦に日の吉凶を加える『暦注』の一つで、日本には鎌倉・室町期に入った。六曜の影響は冠婚葬祭で強いが、明治期にも一度禁止されている。
『六曜』が科学的根拠のない迷信・俗習であることは確かだが、それがなぜ部落解放同盟が憂慮する『差別』に結びつくのか。『一定以上の人数が根拠のない吉凶占いに従う(あるいは本心で信じていなくても同調圧力の世間体に合わせる)』という集団心理を、かつての部落差別・穢れ嫌悪の心理と重ねたという事だろう。
部落差別は『旧身分(穢多・非人)+職業差別+穢れ(ケガレ)思想』に基づいて行われたものである。『生き物の殺生に関わる職業および河原等の特定の地域は汚穢(ケガレ)に塗れている』という無根拠な迷信があり、その迷信は『合理的な抗弁』では変わらなかった。その差別的な大衆心理を六曜の影響力に重ねたという事か。
部落差別と六曜には直接の関係はないが、その大衆心理・世間体の構造には似た要素があるとは言える。部落差別も『私は部落を差別しないという人』が『実際に部落の人と結婚するとなったら猛反対する人』が多かった、六曜もまた『私は六曜など気にしないという人』が『実際の冠婚葬祭では六曜に従ってしまう人』が多い。
部落差別と六曜は『迷信・俗習+大衆心理+世間体配慮』が複合的に結びついているという点で類似している。『私自身はどちらでもいいが世間がそれを許さないだろう(本音では差別したくないし六曜にも従いたくないが世間のみんなが従うから不本意ながら私もそうせざるを得ない)』という歴史的な差別の社会心理と相関する。
そこまで深読みする人は少ないし、部落解放同盟でさえもここまで踏み込んだ『六曜反対の根拠の説明』はしていないと思うが、六曜そのものは古代の政治・軍事・行事を決定した吉凶占いが原点であり、現代では『単なる歴史的に続いた暦付随の占い』に過ぎないもの。占いに過ぎないが実際に人の行動を左右し得る影響もある。
重要なのは、六曜の吉凶占いを本気で信じているかいないかではない。部落差別の本質が部落の土地・人間・生業が本当にケガレに塗れているのかいないかではないのと同じだろう。一つ認識しておくべきは『本音で信じていなくても信じているように振舞う事の連鎖』によって歴史上の多くの差別・迫害が起こったという事だろう。