結婚しなければ働く女性でも困窮する現状は問題だが、『日本社会全体の所得低下・貧困化』が進む背景もある。結婚しても夫婦共に稼げない状態になれば独身以上の危機もあり、男女の雇用と一人当りGDP下落に対処が必要だ。
異性や人間として好きな相手の仕事・所得が安定していて豊かな生活ができる、働きたい女性であれば仕事に専念できる(あるいは専業・パートでもいい)という『理想の結婚』ができる女性は今後減少するが、時代の変化として『生活設計ありきの結婚』が要請されるのに若い時期に現実主義に徹せられる人はやはり少ないだろう。
現代では、実家の経済基盤がある程度あれば、20?30代前半の女性は『生存・生活のシビアさ』をリアルなものとして実感しないままにバイト等でも過ごせる(長期の稼得能力を高めない)という事で、『人生設計重視の結婚』を意識し始めるにしてもその時期が遅いか『決断の基準・時期』に迷いが生じやすい。
男女の性別を抜きにしても、特別に大きな資産や保有するビジネスがない限り、『これからの収入源には何があるのか?自分の職業能力や稼得能力の基盤をどこに置くのか?誰と経済的に助け合えるのか?』という問題・不安から完全に逃れきることはできず、生きているだけで最低限の各種コストがかかる。
これは正規雇用・社会保障(公的年金)でもその収入源がなくなる可能性は少なからずあり、もし今の仕事がなくなったら何ができるか、今と同じだけの収入は得られるか、公的年金の支給が遅くなったり減額されたら何か稼ぐ手段はあるかなどの問題・不安に完全に対処できる人は殆どいないかもしれない。
現代の文明社会のシニカルな側面として、技術革新・インターネット・文化娯楽(コンテンツ)の増大によって『便利で快適・華やかで贅沢・明るく楽しい世界の観念や装置』は常に身近にあるが、それを物理的に手に入れるコストは非常に高騰し、所得・労働の側面だけ切り取れば、一昔前よりかなりハードで不安定になった。
そういった『技術・観念・世界観・コンテンツ』と『暮らし・異性関係・現実・労働』とのギャップが歪な形で拡大を続けているために、余計に生存・生活を守るという現実主義に徹した結婚だけを目的的に若い時期から追求できる人はやはり増えにくいだろう。物理的に働き生きることは高コストだがリターンが弱く見られやすい。
かつては衣食住のコストより『コンテンツ型・コミュニケーション型の娯楽や通信』のほうが高コストな贅沢品で稀少性があると思われやすかったが、現代は『食料品の高騰・住宅費(家賃)の負担増』が起こってそれを賄う労働負担も大きくなっているが、現代人にとっての衣食住の付加価値はあって当たり前で低いままなのだ。
『モノ』より『コト』の消費行動の変化などもそういったモノの付加価値の低下の反映といわれるが、それは『コトの娯楽』のほうが安いのに楽しいという側面がある。食料・雑貨など『モノの必需品』は絶対に必要なのだが、あっても楽しいものではないのに結構高い。ここに現代人の生存戦略を誤りやすい精神のねじれがある。
この精神のねじれというか近代社会の労働価値の前提をひっくり返すものとして、最低限生きる生活保障部分のコストはゼロに近くてもいいという『BI』の構想があるが、雇用・所得の低下が深刻化した北欧などで実験的に導入されているものの、労働意欲維持だけでなく他の社会福祉廃止とセットの事もあり運用は難しい。
高度な科学技術と都市設計で煌びやかに彩られた現代文明社会は、『最低限度の生活維持の営み』をそれほど難しいものではないという錯覚を抱かせやすい。現代に生きる人々の落とし穴の一つは『最低生活水準以上の部分を背伸びして求める心理・行動』の積み重ねで、気づけばリカバリー困難な貧困・孤立に落ちやすい事だろう。
戦後の食糧難の時代には『さつまいも一つの付加価値』は非常に高かった、満腹まで食べる為だけに懸命に働けた。昭和後期でも『ツギハギした服を着る子』は珍しくなかった、家族の新品の服を買うために身を粉にした。マイホームの付加価値は長期の労働を捧げて釣り合った。最低限の生活水準からの底上げで人々が動けた時代である。