体罰の目的は『悪事を改善する指導』というより『上下関係の刷り込み』に近く、暴力・立場で威圧する怖い上位者がいるから大人しく従うという効果はあっても、物事の是非善悪を学ぶ役には殆ど立たない。
体罰の本質は何かと考えれば、『自分の頭で考えないようにさせること・上位者の命令は絶対だという条件反射を形成すること』であり、暴力で相手が萎縮したり服従したりする体罰は『自由意思を奪うことによる表面的な問題解決』にはつながるので、教育の即効性がある(殴った相手が良くなる)と感じる人はいるかもしれない。
ただし物事(行為)の善悪の根拠や改善を自分の頭で考えさせないまま、体罰のみの指導に頼ると、『属人的な道徳観(あの先生先輩が言う事は全て正しい)』に陥りやすいので、『上位者の目の届かない所で悪事をする』や『殴られた自分の屈辱・怒りを下位者に向ける』等の陰日向・いじめやしごき・体罰の伝統化の問題がでる。
生徒が自殺に追い込まれた桜宮高校のバスケ部の体罰は、『一般的な体罰の理由・目的・程度』から大きく逸脱しているのであまり参考にならないが、体罰が必要な相手もいるとする立場でも、『言葉・態度での教育指導や説明説諭が通用しない暴力的な生徒に対する緊急措置』に留めるべきだろう。
体罰をしなければ舐められるとする意見もあるが『挑発的な態度を取る生徒』に対し、暴力・暴言で力づくで大人しくさせるのは教育というより制圧・屈服かもしれない。教師の力・声が弱ければ反対に恫喝して殴り倒してもいいの間違った解釈も招き得るが、物事の是非を真剣に考えて納得する機会がないと人の内面は変わらない。
まぁ、どうやっても変われないままの悪人もいるというのは現実の一面であるが、そういった相手に暴力・体罰で無理矢理に表面的に正しいように見える行動・態度を取らせたとしても、『本音本心の部分で善悪の区別や社会的価値に対する納得』がいっていなければ、力づくの強制がなくなればまた悪事をするし逆恨みもする。
体罰の欺瞞は、やはり一般的な善悪の基準にのっとっておらず、『自分に逆らわない抗弁もしない下位者のみ』を選んで暴力を振るっての指導をしていることで、生徒の中でも札付きの非行少年だったり、街中にいる無法者・犯罪者だったりに対して、体罰の論理で指導しよう(指導できるはず)という人はまずいないのである。
体罰の限界は、『あの怖い先生先輩が怒っているから言うことを聞いておいたほうが良い』という属人的・条件反射的な道徳観の範囲に留まるということであり、体罰をする側も『一般社会的・普遍的な善悪や正しさ』について指導する姿勢は弱く『ここでは私がルール・私を怒らせるな叩かせるな』の自己基準になりやすい。